イケザワキッチンは週休4日

高知に住んでるおばあさんの日記

【模範嫁を訪ねて】12人それぞれの言葉から〜終章

 

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています

 

 

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それぞれの言葉を抜粋して

 

あきこさん

●18歳で結婚と同時に介護が始まる。「なんで私だけが・・・」と涙することもあった。義父は養子で苦労したせいか、理解があり小遣いをくれたりもした。

●唯一の楽しみは縫い物、熱中している間はあまりいろいろ考えずにいられる。

●義父母は介護を全面的にあきこさんに便り、たまに実娘が手伝いに来ても、「あんたじゃいかん」と言って娘にやらせなかった。義父母とも寝たきりになった時は、おむつを洗うのだけでも本当に大変だった。

●農繁期に義母が「明日お風呂入れてよ」と言ったが、「明日、煙草取らんといかんきね、終わってからにしてや」と言ったら機嫌が悪くなり、御膳を持って行ったときに短気を起こしてひっくり返してしまった事がある(その時は義父が義母を怒った)。

●健康だった頃は働き者だった義母なので、病気になって思うようにならない体が歯痒くて、短気を起こす事があった。

 

 

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あや子さん

●自分のした苦労は、娘にも嫁にもさせたくないし、絶対と言っていいほどできない。

●自分が親を看たようには、嫁・子供が看てくれるとは全く思っていない。

●介護は親が死ぬまで続くので、やれるうちはよいが、自分ができなくなったらどうしようと思った。「ばあさんがどれまで生きるか、私も、もう、体にいく、やれるうちはやれるが、もうようやらんなったらどうしよう」これが一番の心配だった。

●自分の老後については「自分でできる限りの事はして、ようせんなったらホームへ入るとか、そういう方を選ばないかんと」

 

 

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たか子さん

●この地域では当時、男が炊事や子育てを手伝うというのを聞いた事がない。

●義父母と子供がテレビを見ていて、子供が漫画を見たがると、こまどり姉妹が見たい義父母はきついことを言って、子供たちをテレビの前から追い払った。すると、子供たちは台所で炊事をしているたか子さんにまとわりつくので、「子供が漫画を見てくれると炊事がはかどるのに」と思った。

●振り返るといつも寝不足だったし大変だったが、当時はあまり大変だったと思わなかった。

●年に一度でもいいから、どこかへ遊びに行きたい、と思わなかったと言えば嘘になる。

●本当に辛いときには愚痴もこぼせなくなる。「今思い出したら、涙の出る時もあるけど、本当に苦しかった当時は涙も出ないし、誰にも話せるものではなかったです。

 

 

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ちか子さん

●義母が早く亡くなったため、炊事や子育てなどを手伝ってくれる人もおらず大変だった。

●夫も漁でほとんど家にいない。

●義父は亡くなる前に、実際にはわからなかったのだが、「すまなかった」と言ってくれたのではないかと思っている。

●ちか子さんが42歳の時、初めて夫と2人で旅行に行った(この地域では厄年42歳の年には夫婦で旅行に出る習わしだった)。

●夫は理解があり、子どもの学校の役員会の研修旅行や漁協婦人部での旅行などに時々参加させてくれた。

 

 

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とも子さん

●介護にヘルパーを使った事はない。店が忙しく義父母の介護につきっきりという訳にはいかなかった。そのため民生委員が来て「病院に入れたら?」と言われたが、義父に意向を尋ねると「家がいい」とのことで家で看た。

●24時間365日介護すると人と、時々やってきて介護する人は根本的に性質が異う。介護する方もされる方も持っている意識が違うため。そういうことを義父母にも話した事がある。

●今、ヘルパーの受講をしている(2級)。身を立てるためでなく、介護人としての認識を持ってもいいかなぁと思って勉強中。人の介護は十分したから、もう2度と嫌だし自分自身が介護されるのも嫌だと言うが受講終了し、ボランティアなどの経験を積んで、やれそうだったらやるかもしれない。自分で自分のことを、おかしいね、と言う。

●将来、自分たち夫婦に介護が必要になったときには、「病院でもどおへでも入れてくれ」と息子に話している。子どもたちには自分がした苦労をして欲しくないし、させたくない。だから息子夫婦とも一緒に暮らしたいとは思っていない。

 

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なが子さん

●生家は貧しく、母が早く死に、父を助けなければいけないと思っていた。

●同じ村内に嫁いでいた姉があげましてくれ、愚痴も聞いてくれた。

●義母が実の娘に「おまんが居らんでもなが子さんが居るきかまん」と言ってくれた。

 

 

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のり子さん

●「当たり前のことをしてきただけ」と言いながら「あんな苦労はいや」と言う矛盾。

●ボロになったんでも継ぎ当てをしたら、200円かかった反物で作ったものの代わりをする。

●義祖母と義父が同時に寝たきりになった時が一番辛く大変だった。しかし、義父が亡くなる前に「長い間世話になったのう」と言ってくれた。

●夫は介護は女の仕事として一切手伝ってくれなかった。表彰を受けたことに関しても現在に至るまで何も言わない。

 

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はな子さん

●自分の将来を考えると、介護保険は必要だ。家で嫁一人が介護するのは無理な事だから、お互いに少々出し合い、みんなにみてもらう事は良い事だと思う。保険料が高いとかいろいろ言われているが、少々のお金には変えられない。

●自分は人に世話をかけずにポックリ逝きたい、嫁に自分が下苦労はさせたくない。」

 

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みち子さん

●長女出産後、義父が何やかにやと言うので、産後10日で田んぼに出た。背中が張ってとてもつらかった。

●三男は未熟児で、コメを引いて粉にして、沸かしたお湯にといて飲ませた。粉ミルクも飲ませたが、再々買えなかった。

●夏場は仕事から帰ったら、皆1時ごろまで昼寝をしていたが、癖になるから昼寝はしてはいけないと、自分に言い聞かせてしなかった。

●嫁に来てから仕事着はたまに買ってもらえたが、着る物を新しく作ってもらう事はなかった。

 

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やす子さん

●自分が動ける間は自分の家がいい。動けなくなったら、長男の家にいかねばならない。

●娘は他所へ行っちゅうし、向こうの親を看んといかんし、娘には世話になると思うていない。「長男の嫁さんがいるのに向こうへ出した娘に世話になる言うたら、これは嫁さんにとっても良くない」

 

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ゆり子さん

●機織りが趣味と実益を兼ねていた。

●珍しい台所用品

●里の親より本当の親のような気がした。嫁に来てからも、裁縫学校にいかせるなど、実娘にもさせないことをさせてもらったことも関係するのか?すごく恩を感じ、恩は忘れない。

 

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よし子さん

●夫の死後、仕事を辞めたい、人にも会いたくないと思ったが、周囲の励ましもあり、続けて勤めた。振り返ると辞めなくて本当に良かったと思う。当時の職場の同僚とは、今でも交流があり、一緒に山登りや絵画を楽しんでいる。

●夫の死はあまりにも突然で立ち直るのに時間がかかった。当時の記憶がほとんどないのは、あまりにも辛過ぎたためと思われる。

 

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 平成12年度 ソーレ女性活動・研究支援事業

         模範嫁を訪ねて〜介護保険の現代的意味を考える

 

 

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           高知女性の会   報告おわり

【模範嫁を訪ねて】18歳で結婚と同時に7人家族の主婦になったよし子さん

 

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています

 

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よし子さん

 

出会い

 

よし子さんの実家は農業であった。

夫とは、よし子さんの実家のすぐ隣に住んでいた夫の同級生を通して知り合った。

そして、昭和24年に高校を中退して18歳で結婚した。

 

婚家は地場産業を扱っていた。

この時の家族構成は、義父母、18歳と16歳の義弟、義妹、

よし子さん夫婦の7人であった。

下の義弟は高校生、上の義弟は家業を手伝っていた。

 

結婚生活

 

よし子さんは結婚と同時に7人の家族の主婦となった。

当時、義母はすね(ひざ)が悪く立ち働くことができず、

家事全般はよし子さんがすることにんあった。

 

飲み水は家の外にある井戸から、鉄瓶でくみあげ、

水が5〜6リットルくらい入る大きなバケツに入れて、

そのバケツを天秤棒の両端につけて担いだ。

これまで天秤棒を担いだことのんあいよし子さんにとって

水汲みは大変な仕事だった。

雨の日は傘をさし、晴れの日よりも少し小さめのバケツを

手で抱えて運んだ。

時には途中で水をこぼすこともあった。

 

井戸水はセメントで作った桶に貯めた。

桶の下に水抜きの穴を開け、よるに水を使った。

水は冷たくて大変だった。

蓋付の桶はバケツで5杯ぐらいでいっぱいになる大きさで、

流しのそばにあり、水をすぐ使えるようにしてあった。

冬はあまり溜めても冷たくさるし、

夏は汚くなるので、水汲みは特に時間を決めずに、

水が無くなったら汲んできて溜めた。

 

朝の分は大抵夕方、汲みに行った。

釜や食器、野菜などは家の中に引き込んでいた川の水で洗った。

この使い水は各家庭に引き込まれていて、汚いものは一切洗わなかった。

汚いものは家のない川下に持って行って洗った。風呂の水もこれを使ったが、雨の日は井戸から汲んでこなければならなかった。

また、雨が強く降る時はバケツに雨水を受け、その水を風呂に使うこともあった。

これは、昔からの生活の知恵だった。

 

水を汲みに行く生活は東京オリンピックの後ぐらいまで続いた。

妊娠中は「大事に」と言って夫が水汲みを手伝った。

長男を妊娠中に、長女をおぶって洗い物を持って出かけ、

落として全部割ったこともあった。

「こんな暮らしが少し前まであったかと思うと、今は天国やと思っています、水道ができてからは、それは楽なものだった」とよし子さんは言う。

煮炊きは薪であった。

当時は洗濯も手洗い、義母は自分のものは自分で洗っていたが、

よし子さんは義母以外の家族の洗濯をし、

食事の支度や掃除など家事労働で1日が終わった。

 

子供は長女が昭和29年、長男は昭和33年に誕生した。

2人とも婚家に産婆さんが来て出産した。

出産後5日ぐらいは安静にしていた。

この頃は義母のすね(ひざ)もだいぶよくなり家事や子守も手伝ってくれた。

 

結婚後は実家が近かったのでよく里帰りをしたが泊まることはなかった。

若い頃は、

泊まったら母が何もかもしてくれて朝はゆっくり寝られるのになぁ、

もっと遠かったら泊まれるのになぁ、と思った。

 

よし子さんは昭和38年に地元のC小学校へ給食調理員として働きに出るようになった。

D町では、E小学校とC小学校の2校がこの年から給食が開始されたのである。

PTA役員から「やってくれんやろうか」と頼まれて

「遊びゆうきやらしてもろうてみようか、ようせんけど」

というくらいの気持ちで勤めることになった。

当時はこんな調子で割合簡単に就職が決まった。

これまでにも農業の手伝いをしたり

「してみん(してみない)?」と誘われていろいろな仕事をしてきた。

「働くことがないき内職をする」

とよし子さんが言い出した時には、夫は

「それだけはやめてくれ」と言った。

C小学校給食の仕事には義父母も夫も

「そりゃえい事じゃないか」と賛成した。

 

 

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この頃の家族構成は、よし子さん夫婦に子供が2人生まれて9人になっていた。

食事は住み込みの男も子を入れて10人分作らなければならなかった。

義母と二人でしていた。

自分が仕事に出ることができたのは、義母が家事を手伝ってくれたことと、

職場が近かったからだと思っている。

C小学校は家のそばにあり、始業のベルが鳴り出してから

走っても間に合う距離だった。

規則も今ほど厳しくなかった。

 

当時は児童120人程度で、先生を入れて130人ほどだった。

給食は用務員さんと二人で作った。

勤め始めた頃には何をしているかわからなかった。

校長先生が心配して

「できゆうろうか」と給食室に度々覗きにきた。

給食を作ることだけに一生懸命で、

流しは向こうが見えなくなるほど洗い物で山になっていた。

 

働きはじねの頃は、5時過ぎには起き、帰りは5時の決まりだったが、

大抵は5時前に帰ることができた。

よしこさんは臨時で2年間勤め調理師の免許を取り、

その後職員に採用され31年間給食の仕事に携わった。

当時調理師の受験資格は2年間の実務が必要だった。

そこで受験資格ができたとき、休みを利用して2日くらいの講習を受けて

受験して合格した。

昭和43年にはS小学校の校長先生に勧められて車の免許も取った。

夏休み前に夜間教習に通い、夏休みになってからは昼間毎日通った。

 

調理場は下がコンクリートで冬場はひどく冷えた。

こんな中で一日中たち仕事をし、夜や休みの日は義父の介護をする毎日出会ったが、

昭和47年ごろC小学校は児童数が50人くらいに減少しており、

仕事に慣れたこともあって仕事は楽になっていた。

そのためよし子さんはこの頃の生活を大変だとは思っていない。

 

昭和56年に給食は自校方式から給食センターに変わり、

勤務先が給食センターになった。

センターでは児童2600人分を14名の職員で作った。

目が回るくらいの忙しさだった。

それに加えて人間関係も大変で辛かった。

辛いことを忘れるためこの頃、よし子さんは趣味として絵画を始めた。

ちょうどs小学校で一緒だった先生も習いに行くということで一緒に行き始めた。

f小学校で辛いことがあった時は、辞めようと思ったが

「辞めたら負けじゃ」と励ましてくれる人がいたし、

絵を習うことで嫌なことは忘れることができた。

 

夫の死

 

よし子さんの夫は地元の消防団で活躍していた。

夫は昭和47年の災害時に出動して、二次災害に遭い死亡した。

一家の家計を支えた夫は社交的な人で、ptaなどにも出席し役員もした。

よし子さんが調理員を勧められた時も理解を示してくれた人だった。

生計の担い手を亡くして、家族5人の生活がよし子さんの肩にかかってきた。

この時、よし子さんはまだ39歳の若さだった。

 

生活費はよし子さんの給料と夫の多少の遺族年金でまかなった。

よし子さんが働いていたので生活費には困らなかった。

夫の死から10日目に今度は実妹が亡くなった。

夫が亡くなってしばらくは、人に会うのも嫌で自分の殻に閉じこもり

みんなが優しくしてくれることがうるさく感じられ

「仕事を辞めてもかまん、もう嫌、仕事せんでもえい」と思った。

しかし、周りの人たちに

「そんな事言いよったらいかん」と慰められ、夫の死についても

「病気なんかで亡くなるのがわかっていて、ずっと世話をしてきて亡くなったのなら、

なんか納得がいくような気がずるけんどね、もう元気で突然じゃったからねぇ」

と当時を振り返った。

元気だった夫の突然の死から立ち直るまで何年間もかかった。

あまりにも辛すぎたためか、この当時の記憶はほとんどない。

 

この時長女は大学1年生で、長男が中学3年生だった。

長女は「学校を辞めようか」と言ったが

「辞めんでも、お父さんはあんたを学校へやりとうてしよったがやき、続けて行ったらえいわい」と言って長女を卒業させた。

長男が高校を卒業した時、ぎぼと二人だけになっていた。

長男は長女が県外にいることもあって、二人を心配して県内で就職した。

 

夫、実妹の死、3年後の昭和50年に義父の他界と不幸がまとめてよし子さんを襲った。

あまりの不幸続きに親戚が

「おまんくに来るがはぎっちり不幸ばかりで、喜びで来た事がない」

と言ったほどである。

夫の死で相談相手を失った。

「何が辛いと言っても、物事を全て一人で決めるということ、相談相手がいないという事が一番辛かった。特に子供の就職問題とか、結婚問題などがつらかった」と言う。

 

介護

 

結婚当時元気だった義父は夫が死亡した昭和47年ごろ、軽い中風の症状が出た。

身体の右側に麻痺があった。日常生活には支障がなかった。

右手が不自由なため、左手で桑を持ち好きな盆栽の手入れや庭木の手入れをして

楽しんでいたし、外出も一人でできたので、手がかかると言うことはなかった。

中風が悪化し、その後膀胱癌にもなり入退院を繰り返して、

昭和50年に自宅で看取った。

 

義父の介護に関してよし子さんは

「私は大した事なんちゃあしてない。本当にそれほどの事していないから」と言う。

入院中は義母が付き添い、退院後は昼間は義母、夜は義母と二人で介護した。

義母が手伝ってくれたおかげで義父の介護を大変だとは思わなかった。

「おばあちゃんがおらんずつ全部自分でせないかんかったら、いろいろ、よう忘れんばあの辛い事があったかもしれんけんど、私はそんなこんなでおばあちゃんがおったから、うんと辛いことはなかった。」

と言う。

それでも、排泄の時は恥ずかしかったらしく、

よし子さんがいるのに義母を呼んだりしていた。

たまたま義母が留守の時に尿が出ていないか訪ねても

「何ちゃあ出ちゃあせん」と遠慮したり

「どうしてもトイレに行く」と言い張って、

結果的に間に合わなかったりしたこともあった。

 

ぎぼは最近目の手術をした。その後少し痴呆気味である。

退職したよし子さんは現在義母の介護をする日々である。

 

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表彰

 

昭和49年に表彰されたが表彰されるという知らせは、誰から知られたか

表彰式に出席したかどうかは覚えていない。

表彰状と記念品のお盆をもたったと思うが、

どこにかに仕舞い込んでわからなくなっている。

表彰された時、「自分はなんちゃあせんのにこんなに貰うたりして、私は貰うものじゃない。表彰されるほどのことはしちゃせんに、私が表彰されるのはおかしゅうて」

と自分が表彰される事が不思議だった。

「もう決まっちゅうき」と言われて、表彰は受けたが、後になって

「あの時、表彰してもろうちょって、良かったろうか」と思った。

 

嫁というより子どものような気持ちだったので、表彰されて嬉しいという気持ちは起こらなかったし、表彰に関する記憶も少ない。

表彰されたときの周りの人たちの様子も覚えていない。

むしろ、表彰されたことよりも、一生懸命働いて毎日の生活を支えてきたことの方を、

よく覚えている。だから、表彰されたことについては、

「何か恥ずかしいような、こそばい、そんな気持ちもする」

と語ってくれた。

 

退職後の生活

 

退職してから、義母の介護をするかたわら、

元同僚と趣味の絵や山登りを楽しむ日々を送っている。

「仕事を通じて、良い先生とも巡り合え、いろいろな友達ができ、趣味もいろいろできた。仕事をしていて本当に良かった」と言う。

現在でも、学校に勤務していた頃の友田ととの交流がある。

絵は今では一番の趣味である。

友達との山登りは、健康を維持するために行く。

「今はうんと幸せや」と言う。

 

そして趣味の絵を描いたり、仲の良い友達と旅行や山、買い物などを楽しむ事がよし子さんの支えとなっている。

現在、よし子さんは住み慣れた土地で、平成3年に新築した自宅で義母の介護をしながら、趣味を楽しむ毎日である。

 

                   よし子さんおわり

 

 

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【模範嫁を訪ねて】ゆり子さん18歳で義祖母、義父母、義妹同居婚

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

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結婚

 

ゆり子さんは大正14年に農家の7人兄弟の三番目として生まれ、円満な家庭で育った。

実家の田んぼの隣の仲人をしていたお婆さんに

「ひゃくしょうしゆうからあの人を紹介してあげよう」と紹介された。

ゆり子さんはまだ結婚するつもりはなかったが

昭和18年、18歳で結婚した。

結婚した当時は義祖母と義父母と義妹、そしてゆり子さん夫婦の6人であった。

 

実家も農家であったが洋裁を習っていたため農作業は時々手伝う程度だった。

習っている最中の洋裁も

「続けて行かすから」ということで嫁いで来た。

「姉さんばっかりで私は習わせてくれざった」

と今でも義妹に文句を言われるが、義母は理解のある人で、その言葉とおり農業の合間に洋裁の他にも編み物などいろいろ習いにいかせてくれた。

 

結婚する際、実家の両親に

「親は大事にせないかんぞね」と言われた。

義父母は「ゆり子さん」と呼び何も知らないゆり子さんにいろいろと教え

「えい嫁や」と誰に会うてもおじいさんが話して、私をえい嫁にしてくれた。

「恩は忘れられない」と言う。

 

義父母ともできた人で実家にいるよりここへ来てからの方が良かった。

今でも毎朝ご飯とお茶を、珍しいものが手に入った時には、

それを義父母にお供えする。

ゆり子さんは義父母に、本当に良くしてもらった、と何度も言う。

夫はお人好しで通っていて、細かい事は言わない人で、

一度も手を上げられたことがない。

実家へ帰りたいと思うこともなく幸せだし、

結婚後一度も実家へ行って口をこぼすような事はなかった。

 

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機織り

 

ゆり子さんの実父はシャツを買ってきて、見様見真似でもう一枚新しいシャツを縫うほど器用な人だった。

ゆり子さんはミシンの使い方を父親に倣い、縫い物の面白さを発見した。

それが洋裁学校へ行きたいというきっかけになった。

 

結婚してからも、編み物や手織りぬので子供や義母の着物などを縫った。

稲岳しか作ってない頃は、今と違って農業の合間に時間があった。

全て昼間したのだが「よう出来たと思う」とゆり子さんは言う。

 

隣のお婆さんが機をおることを知り

「私、里から機を借りてくるき教えてね」と頼むと、お婆さんも

「うん、教えちゃらあよ」と機織りを教わることになった。

その当時、すでに機織りをする人はあまりなく、

近所でも隣のお婆さんとゆり子さんぐらいだった。

 

二番目の子供が生まれた昭和21年ごろから、その子が小学校に通学している昭和30年まで、何十反も織った。今でも記念に反物を置いてある。

白糸を買い、紺屋で染めてもらい、それを自宅に持ち帰って、糊をつけて伸ばす、

といった作業をした。

縞を作るのが楽しみで、他人の着物を見ては、ああいう縞に織ってみようと、

当時は常に考えていた。

 

織るのには1週間もかからなかった。

白と黒の碁盤模様は義父のシャツに、真っ白の布を織ってブラウスにしたりした。

その頃、既製品がない事はなかったが買った事はなく、

中学生になるまでは子供の服を全部縫った。

「好きやった。縫いもんが好きで勉強はいかんかった」

とゆり子さんは言う。

 

生活

 

結婚当時の生活は、井戸から釣瓶で水を汲んで風呂に入れ、

ご飯は薪で炊き、冬場は夫と荷車で山へ薪をとりに行った。

1〜2年分の薪を用意した。

ガスが入る昭和30年ごろまで山へいった。

今は洗濯機に入れておくだけで洗濯できるが、結婚当初はたらいで手で洗い、

生地の厚いものは洗うのが大変だった。

 

竈の脇へおが屑のあまだしというものがあった。

かま罐におが屑と水をちょっと入れながらギシギシ詰めて、

差し込んである棒を引き抜いて下の方から火を付けると、

下から上に火が上がってくる。

それでご飯を炊いたり、お湯を沸かした。

一昼夜火を保つことができる便利なものだった。

一昼夜でバケツに5〜6杯以上のおが屑が必要だった。

その当時近辺のどの家にもなかった。

 

仕事

 

ゆり子さん夫婦は今は農業をしていない。

土地を貸し、人に作ってもらっている。

かつては、米の二期作をして、煙草を作った。

煙草をやめてサツマイモを作っていたが、

年をとると重たくて体にこたえるようになったので

葱を作るようになった。

 

農繁期は10〜15日ほどの間、山間部から2人ぐらい人を雇った。

かつては、稲を刈ってすぐ植える年2回の米作りだったが

特別忙しいとは思わなかった。

百姓がする当たり前の仕事だからである。

昔は田植えも稲刈りも稲扱きも全部手作業だった。

「今は機械でダーッと刈ったらもう籾になって便利になった」

とゆり子さんは言う。

 

当時は公民館で共同炊事があって、

昼食、夕食のおかずとおやつを作ってくれた。

「おやつが出来ましたよ」

「夕餉ができましたき取りに来てください」

と放送があると、子供に入れ物を持たせてとりに行かせた。

すぐに食べられるから手間がかからなかった。

約20年前まであったと記憶している。

 

 

 

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出産・子供

 

出産は助産婦にきてもらい自宅でした。

お腹がつかえるからあまりできないが、

仕事はできる範囲で出産直前までした。

長女は昭和19年、次女は昭和21年、三女は昭和24年と

3人の女の子が生まれた。

 

義母が「お産は大事やから33日は何ちゃあせられん」

と言って休ませてくれた。

「お産をしたら赤物を食べないかん」と言って鯛や甘鯛を炊いてくれた。

ゆり子さんも夫もさんにの子供を一度も風呂に入れたことがない。

義父母がいつも入れてくれた。

 

農作業で汚れて帰宅すると

「早うに風呂入れるき、連れてきとうせ」と義父母が言ってくれるので

子供たちを風呂場へ連れて行き、

風呂から上がったら着物を着せるだけだった。

その時の思い出を

「そればぁ大事にしてくれたき、自分の親よりもまっことえいと思いますがねぇ」

とゆり子さんは話した。

 

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介護

 

昭和29年に義父が倒れ、一年後に義母が倒れた。

義父母とも中風だった。

亡くなるまで20年間介護した。

 

ゆり子さんにはそれまでに中風になった実家の祖母、母を看てきた経験があった。

義母は倒れる前に肩が凝ることを口にしていた。

今だったら何かと気をつけるのだろうが、倒れて後になって思い当たる。

義母が箸を落としたので

「あら、おばあちゃん中風になっちゃせざったかね、と言うと、ヒューッと倒れた」

そして、その後すぐ意識がなくなった。

今ならすぐ救急車で病院に行くところだろうが、自宅で頭を上下氷で冷やし、湯たんぽを入れて看病した。

往診を受けて意識不明後11日目に手を動かしたので

「あぁこれで気がつくな」と思って嬉しかった。

 

はじめのうちはオムツを使ったりして手が掛かった。

昔のことで今のように紙オムツもなく、オムツを洗うのにお湯を使うため

手の皮がむけたこともある。

徐々に回復し、座ることができるようになった頃はオムツも不用になり、

尿瓶で取ることができて割と楽だった。

 

義母は、具合の悪い時はゆり子さんたちと同じ棟の部屋で寝ることもあったが、

いつもは別棟の部屋で寝ており、三度の食事を運んだ。

用事があればベルで知らせてくれた。

夜中も起きる必要がなかったわけではないが、

「わりと世話のない人でした」

と介護の苦労話を聞いても特別思い出すこともない。

 

食事は義母に一番食べさせた。

ゆり子さんが外出するときでも

「おばあちゃんのご飯を一番先に食べらしちょいてよ」

とことづけて子供たちはそれを守っていたが、

ある日、外から帰ったゆり子さんが

「お昼食べさせてもろうた?」と聞くと

「おまんが帰るまで待ちよった」ということもあった。

 

魚が嫌いな義母には野菜を柔らかく炊いて食べさせるなど、そのメニューには困った。

義母は回復してくると、柔らかくしたり、食べやすいようにすれば、

左手に持たせたフォークで自分で食べる事はできた。

お茶は寝飲み(吸飲み)へ入れていた。

風呂は夏は少し流す程度、冬は寒いので拭く程度だった。

髪は洗って後ろに団子に結った。

 

義母の頭はしっかりしていた。

ゆり子さんが忘れてはいけないことは義母に

「覚えちょいてね」と頼んでおくと

「ゆり子さん・・・」と声をかけてくれた。

「おまんが悪うなったら困るきに、お医者へ早う行っちょいてよ、悪うならんようにしちょってよ」

とゆり子さんを気遣い、また実の娘よりゆり子さんを頼りにした。

ゆり子さん自身も義母が倒れてからは、畑に仕事に行っても、用事があって外出しても、義母のことが気になり、いっときも頭から離れたことがなかった。

 

当時を振り返りゆり子さんは

「忙しいは忙し買ったですけどねぇ、これがよめのつとめと思うて大変とは思わざったです。その時はその時で一生懸命やりゆうからね、若さというもんで」と言った。

 

表彰

 

ゆり子さんは介護を始めて16〜7年たった頃に表彰を受けた。

夫の姉が婦人会の世話をしていて、ゆり子さんの知らないうちに推薦してくれていた。

 

表彰を受けた時、義母は喜んでくれた。

「私はこればあのことで恥ずかしいですね、当たり前のことをしたのにね」

とゆり子さんは言う。

表彰状はずっと飾ってあったが、数年前に紐が切れて以来しまってある。

表彰式の後、近所の人がお客(宴席)をしてくれたことを思い出し、

「私らの時代は近所も仲がよかった」とゆり子さんは言う。

 

表彰を受けた年か明くる年の10月ごろ「さんふらわあ」というフェリーに乗って

東京・箱根・熱海へ行く老人洋上セミナーに参加した。

家族みんなが「行っておいで」と送り出してくれた。

義母の世話はみんなが代わりあってしてくれたので、

心配せずに行くことができた。

 

 

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これからのこと

 

ゆり子さんの3人の娘はすでに結婚している。

一旦は夫婦だけ担っていたが、

次女夫婦と孫2人の4人が同居するようになった。

「私は(同居しているのが実の)娘やき言いたいように言えます」

と言いながら、今の嫁姑の関係を見て

「私らの教育と違うかもわからんけどねえ・・・」と言う。

 

59歳で交通事故に遭い内臓破裂の瀕死状態になったが、奇跡的に助かった。

そのほかにも子宮筋腫や股関節の手術をした。

膝さえ悪くなければ

「まだ何しても若いもんには負けんという気持ちはあるけどね」

と言うが坂道では杖がいる。

この膝の痛みをゆり子さんは

「若い時に働いた恩給」だと言う。

できるだけ若い者に負担をかけないように、

悪くならないように心掛け、デイサービスにも行っている。

子供たちに世話にならないように元気でいたい。

 

自ら立てた目標は80歳!

 

                 ゆり子さんおわり

 

 

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【模範嫁を訪ねて】昭和36年頃22、23歳で結婚したやす子さん

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています

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出会いと結婚と知らなかったこと

 

昭和14年にやすこさんは妹一人弟二人の長女としてa村で生まれた。

父親を戦争で早くに亡くしたので母親は一人で3人の子供を育てた。

実家では母親が少しの田を耕しており、

やすこさんも学校が休みの時などは手伝っていた。

 

結婚前は土木会社で働いていて、その時にa村に仕事できていた夫に見初められて、

昭和32年頃、22、3歳で結婚してb村に来た。

 

結婚するまで、杖をついて歩く足の不自由な義父と

目のほとんど見えない義母がいることは、何ひとつ聞かされて位なかっった。

 

夫は7人兄弟の次男だったが、他の兄弟は皆他県に行っており、

夫も土木の仕事に出ていたために、やすこさんが結婚するまでは、

目の悪い義母が煮炊きをして、

足の悪い義父が火を見るようなかたちで、

二人で家事をしていた。

 

しかし、やすこさんが結婚して家に入ってからは

家事は全てやすこさんがひとりで全部するようになった。

結婚当時の家族構成は、

やすこさん、夫、義父、義母の4人だった。

 

 

4人の子供を自宅で出産

 

昭和37年に助産婦さんに来てもらい長男を出産した。

昭和40年に長女、42年に次女、44年に次男の出産時には

夫や夫の姉に取り上げてもらい、病院には行かなかった。

 

産後の肥立で休んでいる間は夫が炊事をした。

自分の代わりをしてくれる人もいなかったため、

ゆっくり休むわけにもいかず、産んで1週間後には働き始めた。

 

義母は足は大丈夫だったので、

長男が生まれた時は背中におんぶしてくれたこともあったが、

大体はやすこさんが子供を背負いながら義父母の介護をした。

 

 

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薪で風呂、谷の水で洗濯、ひとりで家事

 

製材の橋切れを買ってきて薪にし囲炉裏に鍋をかけてご飯を炊いた。

風呂も薪で沸かした、それはプロパンガスに変わるまで続いた。

 

家の裏がずっと小道になっていたので谷からパイプで水を引いていた。

当時はb村も冬は雪もよく降って沢の水はとても冷たかった。

風呂を沸かした時はそのお湯をタライに入れて洗濯もしたが、

すすぐ時や炊事には水を使うため、手がひどく割れひびも切れた。

 

子供のオムツ、大人のオムツ、そして家族全員の着物、

洗濯物は、洗濯板で洗って干して取り込んで、と一日かかった。

朝はほんとうに忙しくて、ゆっくり食事をするということはなかった。

それが今でも癖になり、朝と昼の食事を一緒にしてしまうこともよくある。

 

夜は義父母も夫も宵っ張りで、自分だけ先に休むこともできず、

昼間少しの間を見つけて子供と横になったりした。

そんな生活の中で、義父母を放って里帰りはできなかった。

 

義兄弟の中に、代わりに看るから里帰りしておいで、と言ってくれる人もいなかった。

頼んで行くこともなかなかできなかった。

初めて里帰りしたのは、やすこさんが嫁いで7年後のことだった。

 

その後もやすこさんは長男と長女は実家に連れて行って

母に直接合わせることができたが、下の子供2人はできなかった。

写真を送ると母は喜んでいた。

しかし、度々は連れて行けなかったから、

上の子供たちでさえ、実家の祖母のことははっきりと覚えていない。

 

子供も小学校6年ぐらいになると、男の子だけに食べる量も増える。

その当時は今のように5キロや10キロ詰めのコメではなく、

30キロもある大きな米の袋を農協から車の入る近所まで運んでもらい、

そこから家までやすこさんが抱えて運んだ。

 

最近ではそんな重いものは持てなくなった。

何かもとうとすると意外と力は出るが、起き抜けや体が痛い時は、

ほんとうに辛いものだ。

今考えても当時はほんとうによくやっていたと思う。

 

 

子供、教育

 

b村は秋祭りがある。

次男が小学校へ上がる頃のことだ。

c地区に生徒がいないため、

d地区からも人を出して行こうということになり、

その時次男にも声がかかった。

一回めは会があった時に行ったが、2回目からは踊りも頼まれた。

次男が「お母さん、もう断っちょいて」と言ったのでそれを伝えに行くと、

それは困ると言われ、結局学校へ入ってから7年間ずっと祭りの踊りに行っていた。

 

朝出るスクールバスに乗り、夜はその戻ってくる便に乗って帰る。

楯をもらったこともある。

しかし、中学校1年の時、義父が亡くなったため祭りに出ることはやめ、

それ以降は踊りに出ることはやめた。

やすこさんも次男が踊りに行くときは毎年見に行った。

その後も2度ほど見に行ったが、それ以降は行っていない。

 

 

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介護

 

時には介護などの辛さでつい

「もう、気に入ったようにしたらえい、もう知らんよ!」と言ったこともあった。

その時に義父が「しらにぁほっとかんせ・・・」と言われてとても後悔した。

また、義父母も娘との電話で話しているうちに愚痴を言う。そういうときには

「それほど気に入らんかったら娘にみてもろうたらえいわい。」

と言ったこともあった。しかし義父母とのやり取りはそれほど気にしないようにしたし、逃げたいと思ったこともなかった。

介護の中で何がどれほど辛かったかなどは、今ではもうあまり覚えていない。

だが、夫の兄弟が電話で何やかやと言ってきたときには

「こがんにしゆうに(こんなに尽くしているのに)悪う言われて、、」と思った。

実際の介護も辛いことはあったが、介護をしていない人に悪く言われるのが何よりも辛いことだったと言う。

辛いことがあっても子供を置いて出て行くことはできなかった。

子供がいたから頑張ってこれたとやす子さんは言う。

 

義父は昔、桶の輪を竹で作る樽屋の仕事をしていたが、やす子さんが結婚してこの家にきた頃にはすでに杖をついて歩くのがやっとで、仕事はしていなかった。

家にずっといたということもあり手がかかることはなかったが、転んだら危ないので心配はした。

トイレは自分で行っていたが、行けなくななるとやす子さんが下の世話をした。

義父母もだんだん体力がなくなり、食が細くなって行く、食べさせたいと思っても、

なかなか食べてはくれない。

夜寒い季節でもゆっくり休めない。

起きてからも寒く、炬燵に入ろうと布団を剥ぐと呼ばれる、ような状態で布団に入る間がなかった。

 

義父がなくなる一年ほど前頃はおむつを帰る時も大変だった。

義父は大きな人だったため、一人では一度で全てが終わらない。

おむつを換えると首が下へ落ちる。首が下へ落ちる。首を上げて内股に乗る。

そうすると今度は胴がおかしい、胴をなんとかしようとすると足を寄せなくてはならない、、、本当にてんてこまいだった。

義父が亡くなったのは朝方だった。その前日に医者が来てくれて

「もう今晩はゆっくり休みなさい、もしものことがあっても何も心配することはないから、今までちゃんとしてきたのだから」と言ってくれた事もあって、いつもは寝る暇もなくほとんど起きていたが、その日の晩はゆっくり寝ることにした。

寒かったので豆炭を入れるアンカを布団に入れて寝た。

朝方、妙に足が痛くなって目が覚めた。

見るとアンカが熱くなりすぎて火傷しかかっている。

「おじいさんの知らせじゃったか」とふと思い、早くに看に行かなくてはと戸を開けると、もう息だけの状態だった。

それから、夜が明けてくれたらいいのにと重いながら、ずっと朝まで看ていた。

昭和59年、享年89歳だった。

 

義母は若い頃から血圧が高かった。

子供の頃から鳥目で夜は外へ出ることはできなかった。

当時は目の手術もできなくて歯がゆい思いをしたらしい。

通ってくれた医者は、先代から夫の家のかかりつけの先生だった。

やす子さんが疲れたときには気を遣ってくれて、疲れに効くという注射をしてくれた事もある良い先生だった。

先生にはきてもらえる時にはほとんど来てもらっていた。

義母は「もう脈が止まりかけた」「血圧が上がりゆう、下がりゆう」と度々言い、

その都度やす子さんが電話をした。

先生が今日は忙しくて行けないと言った時でも、義母は自分が電話で話して確認を取った。直接話すとようなく納得して落ち着くのだ。

義母がどうしても医者に来てもらいたいという時には、義母に言われるままにまた電話をして「どうしてもこう言うけど言う事聞間から先生言うてちょうだい」と言って説得してもらったこともあった。

義母もわからない人ではなかったが、目が見えないための苛立ちもあったのだろう。

 

介護をしていた時も、他人が何か言うと、それを自分のことと思って気分を悪くすることがあり、時々やす子さんも義母と衝突したと言う。

まだ末の子供が学校へ行き始めた頃のことだが、家でぎぼと衝突しているところを子供が見ていた。

食事の時、義母はやす子さんの声が聞こえると食べないが、やす子さんが裏へ回っている間に子供と話しながら機嫌もよくなって食べ始めた。

そんなふうに子供が間を取ってくれたこともある。

昭和61年1月11日の朝のことである。

義母が起き上がろうとしても起き上がれなくなり、やす子さんを呼んで「姉さん妙なことよ、ようおきんなったがや」と言う。

やす子さんが手を貸してみたが、どうしても片一方が横になってしまう。

血圧が高いために中風になったのではと思い、すぐに医者に来てもらった。

やはり中風だった。

12日に県外にいる夫の兄弟に知らせたが、翌13日に義母は84歳で亡くなった。

あっという間のことだった。

いくら衝突をしても、自分の親代わりの人である。

結婚してから24年間、付きっきりで看てきた。

最後には義父母も「世話になったき」と言ってくれた。

自分の親の時はそれほどでもなかったのに、義父母が亡くなった時は、とめどなく涙が流れた。

当時、お年寄りの世話に関して、村からの援助は全くなかった。

役場の人の中には、義父母をそれなりのところに預けて、やす子さんが仕事に行った方がいいと言ってくれる人もいた。それはやす子さん自身十分に分かってはいたが、やはり夫の兄弟たちは「家で看てもらいたい」と言う。

それを振り切って義父母を病院に預けるわけにはいかなかった。

それで、ずっと家で看ていた。

夫の兄弟たちは、それまではいろいろ言っていたが最後には

「ねえさんには世話をかけた」と言ってくれた。

 

表彰

 

義父母を世話していることを役場も知っていたからか、昭和46年に役場から模範嫁表彰の通知があった。

その頃、やす子さんの母は子宮ガンを患っており日赤病院で手術をした。

表彰の通知を受けたと言う連絡をすると、母は喜んでくれた。

現在90歳になる母の姉が、当時病院で母を看てくれていた。

やす子さんの妹が母のそばにおり、その妹が母の最期を看取った。

「それが気掛かりで残っちゅうもんで、やっぱり夢にもしょっちゅう見えてましたもねぇ。やっぱりあれは一つだけ残念に思うけど、どうしようもない」

と今でもやす子さんは思う。

当時も辛かったが、家の外ではそんな顔もできなかった。

 

そして表彰の日、夫も義父母も喜んでくれた。

やす子さんとしては

「そがなおっこうなことにもようばん(そんな大袈裟なことをする必要はない)」

と思っていたが、まあいいことだからと行くことにした。

夏だった。

妹に貰っていた少し薄めの緑色のスーツを着て、バスト電車を乗り継いで、役場の人と一緒に県庁へ行った。

県庁で他の受賞者を見かけたが、声をかわす間はなかった。

自分と同じようにしている人がいるのだなあと思った。

知事から表彰状と急須と湯飲みのセット、風呂敷などを受け取って帰った。

その後テレビにも映り近所の人々が

「表彰して貰うたねぇ」とよく声をかけてくれた。

大変だね、という言葉が支えにもなった。

 

夫が遠くの出稼ぎ先から月に何度か手紙をくれた。

「無理をしないように」と書いてあったのがすごく励みになった、

と当時の新聞記事にもあった。

夫はふだん家にいなくても、家に戻ってきている時はいつも手伝ってくれた。

介護の終盤は夫も病気がちで家にいたので、夫と二人で一緒に介護もした。

「やっぱり二人で力を合わせていきゃあこそねぇ」とやす子さんは言う。

 

もちろん4人の子供たちはやす子さんがとても苦労してきたことや、

模範嫁の表彰を受けたことを知っている。

模範嫁の表彰状はずっと飾っていた。

しかし表彰のことは自分から息子の妻たちには話していないし、言う気もない。

 

仕事

 

義父母の亡くなる数年前から、夫は病気がちになり家にいることが多くなった。

介護も二人でやっていたが、義母が亡くなった昭和61年の3月から

やす子さんは土木の仕事にで初めて現在も続けている。

 

夫の入院

 

夫は病気になり始めた時からE病院にかかっていたこともあって、

ずっとそこで診て貰っていた。

やす子さんは最初の頃はバスでよく行っていた。

必要なものを買おうにも見知った場所ではないためにお店やものを探すのが大変で

遠くまで歩いたこともあった。

 

病気がひどくなり入院するようになると、夫に何かあった時は病院から業者や社長に電話がかかり、そこから携帯電話で山のやす子さんの仕事場に連絡が入るようにした。

夫が1週間ほど高熱が続いたこともあった。

いつも連絡が入るのにその時は連絡が遅く、

病院に行ってみたら夫は言葉もあまり言えない状態になっていた。

もう少し早く来たらよかったと思った。

仕事に行きながら2週間おきに10日ずつ夫のそばに付いていた。

最初は交通の便がよくわからずそれまで行ったことのない、

高知の街へ行くのも怖かったと言う。

 

そうした日々の中で

「お前が良うしてくれたきここまで命があった」

と夫はやす子さんに言った。

 

現在の生活・心境

 

夫は平成9年に62歳で亡くなった。

夫の兄弟は現在G町に住んでいる。

そのため夫が亡くなってから後、道路の清掃、神祭の当番といった部落のこと、

組合への出席、法事の手配、孫のお守りなど、全てを一人でしなくてはならなくなった。

特に法事は亡くなって7年くらいまではお坊さんを自宅に呼んでやってもらった。

10年をすぎるとみんなでお寺に行き読経をしてもらったが、

一人が済んだかと思えば2、3年後には次の人の法事があり、次から次へと続き大変であった。

 

現在子供達はみんな結婚している。

H県に嫁に行った次女は夫の親と同居してもう何年も経つ。

お互いに慣れてくるといろいろあるらしいが、

娘は「お母さんのやるのを見てきちゅうき心配することないよ」と言う。

しかしやす子さんに言えば心配をかけると思い、耐えているのではないかと思う。

他の子供たちは高知市内に住んでいる。

長男と長女に二人づつ子供ができ、月に2回ほど子守にも言っている。

 

これと行った趣味もないし、特にやりたいこともなく「ゆっくりできるかな」と思っていたが、時々孫のお守りに行くことになった。

息子夫婦が働きに出ているためだ。

普段は子供をほいくえんんい預けていて、やす子さんが行けない土、日曜日は息子の妻の職場に来るお守りさんに預けている。

息子夫婦は今アパートに住んでおり、狭いこともあって、

やす子さんがずっと住むわけにはいかない。

自分が動ける間は、部落のこともあるため大変ではあるが、

今の暮らしを続けていきたいと思っている。

 

しかし、もしも自分に何かあったときには、

長男の元へいかなくてはならなくなるだろう。

実娘に看てもらうことは考えていない。

娘も「お母さん、私は世話ができ、家を出ちゅうき。お母さんはお義姉さんに世話にならなあいかんぞね」と言う。

長男の妻がいるのに、嫁に行った娘に世話になるのは、

長男の妻にとってもよくないだろう。

「自分はここにおりたい」と言ったとしてもそうはいかないだろう。

できるだけ自分でやれる間は世話になりたくない。

だから、今は健康にとても気をつかっている。

 

義父母の世話について、今にしてみれば当時はよくやったなあと思う。

疲れていたのに愚痴をこぼす暇もなかった。

無我夢中で、若かったからできたことだと思う。

何とかやってきたが、これからの若い人が自分と同じように介護をしていくのは難しいだろうと思う。

また、息子たちの妻にこうしなさいと言いたいことがあっても、自分の経験から考えたら実際に言うことはない。

「お母さん、お嫁さんには、何ちゃあいらんこと言われんぞね。」

と娘が言ったときにやす子さんは

「言わん、言わん、お母さんは姉さん(息子の嫁のこと)が言うようにあれしていくき、何にも言わんよ」と言った。そしてその通りにしている。

もう自分たちの時代とは違うこともわかっているし、

また自分のしてきた同じ苦労をかけたくないからだ。

 

やす子さんは調子の悪い時はともかく元気な時は、仕事から帰ってきた後でも畑をいじったり、水を撒いたりしている。

じっとしているのが嫌なのだ。

みんなに冗談で言っている。

「家から外に顔をだしゆう間は元気なけどねぇ、見えんなったがいじょう、顔も出さんがゆうた時には鍵して中におるき、見に来いやの」と’(顔が見えなくなったら家の中に入ってきてねの意)

 

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介護保険

 

介護保険は、やす子さんにとってはよくわからない。

のみならず、この新たな負担に頭を悩ませている。

保険料は各個人の収入によって考えられているとはいっても、

利用しようとすれば利用料がかかる。

去年から貰うように年金と、月に何日かある土木の仕事からの収入で生活しているが、仕事がずっとない時は、保険料は大きな負担だ。

今は何とかして頑張らなくてはと思い、仕事をしているが、

いろいろ考えていると本当に嫌になってくる。

「まっこと、どがいなるろうと思うてね」

どうしようもないことだと思いながらも、先のことを考えると不安になる。

 

                           (やす子さんおわり)

 

 

 

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自炊生活に迷ったので読んでみた「自炊力」食生活改善スキル

 

最近ちょっと迷いができてたんですよね、自炊ということに

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 帯の作らずに、「買う」ことだって自炊です!

 

というのにささりました

世の中がすごいスピードで変わってきていて

だから、料理の世界も当然変わってきているのだけでど

料理というのは習慣だから、

育った環境の時代を引きずったまま

同じことを繰り返しがちになる

でもあるとき、ふっと、ちょっとちがってきたかな、と思う

 

焼きナス

大好きなおかずは「焼きなす」だったんだけど

だんだん「焼きなす」が美味しく思えなくなってきて

 

そもそも、ガス台に網を乗せてナスを焼いて

水道流しながらアツアツと言いながら

皮をむく必要ってある?

 

ナスを切ってビニール袋に入れてレンジでチンして

味ぽんとごま油で和えれば「ナスのナムル」になって

ご飯にも合うし、簡単だし、味にインパクトがあるし

今風のおかずだし

 

おにぎり

 

おにぎりの具は梅、昆布、おかか、以外は食べたことがなくて

もちろん真っ黒い海苔で巻いてあるやつ

でも、これって作るの結構面倒なんだな

それで、ご飯にふりかけ混ぜてサランラップに巻いて

握ってみたらキレイだし手が汚れないし、1工程で終わってラクチン

 

それですごく悩むのです、

おにぎりの具は梅で海苔が巻いてあるのがおにぎりなのに

ふりかけだらけのおにぎりでいいのか!と

 

売っている美味しそうなオカズ

 

スーパーにもコンビニにも美味しそうでおしゃれで今風なオカズ

が調理しやすいように至れり尽くせりの形で売られている

料理に手をかけないで、自炊できる環境が整っている

自動車が安価に手に入る時代に、リアカー押して通勤しているみたいな、

漬物つけたり、干し大根作ったりしている自分がすごく古臭くて

時代遅れだなと思う

(漬物も干し大根も市販品に比べてぜんぜん美味しくない)

 

時代にあった自炊力

 

スーパーに行って好きなものを買う、

好きなものを買うってけっこう難しい

組み合わせを考える、あれとあれとあれ

主食と副菜とデザートをあれこれ買って

楽しんで買い物をする

 

その次にすることは

残った食材を使い切ることに全力で頭を使う

食材を使い切ることが目的なので

そのためのなんでもありな料理でいいので

とにかく食材を使い切る

そうすると罪悪感とか喪失感とかがなくなるので

次の買い物も楽しくできる

 

ひき肉を買ってハンバーグを作る、というのはやめたほうがいい

ナツメグとパン粉の消費がとても難しい

 

自炊力をあげるということは

残った食材をうまく使い切るということと

直結している

 

楽しく買い物して、美味しくご飯を3食食べて

食材は使い切る、ということが自炊力だと思う

食材は薬でも毒でもないので、変にこねくり回すことなく

食べたいものを食べて、たまには調節してみたりして

ストレスフリーな生活が大事だと思った。

 

 

自炊力 料理以前の食生活改善スキル (光文社新書)

自炊力 料理以前の食生活改善スキル (光文社新書)

  • 作者:白央篤司
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2018/11/14
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

 

 

「食事ハック」と「ロジカル家事」を読んで即買いしたもの

今のマイブームが勝間和代さんです。

暮らしの不便やめんどくさい、を見直しています。

 

勝間式 食事ハック 

勝間式 食事ハック

勝間式 食事ハック

 

 この本を読んで、ヘルシオと電気圧力鍋を即買いました。

そして、今まで以上に自炊して家で食べています。

 

今までと違うことは、コンロとお鍋を使わない、ということと

市販のルーをなるべく使わないで、少ない調味料で味付けすること、

 

そうするとどうなったかというと

●鶏肉と野菜を切って、ヘルシオのおまかせ調理でスタートボタンを押す

●電気圧力鍋に味噌汁の具(余った野菜と油揚とキノコを冷凍したもの)

と本だしと味噌を入れてダイヤルを回す。

 

でコンロも火も使わない、神経も時間も使わないで

上等の熱々料理が出来上がる。

 

素材と調味料の素性が分かった料理を

いつでも簡単に美味しくいただける。

 

欠点は外食好きなのに家で食べてしまうので寂しい、

という問題はある。

 

 

 

勝間式 超ロジカル家事 

勝間式 超ロジカル家事

勝間式 超ロジカル家事

 

この本を読んでルンバを即買いしました。

床に物を置かない生活を目指しています。

 

ほんの50年前まで、家族が寝静まってから、川へタライを持って

洗濯に行っていた、と姑が言っていましたが

それでも、家事は自動車や印刷技術ほどには変化が少ないと思う。

 

それって変だ。

家事も効率化、省力化、時短すべきなんだ、と思わせてくれた本です。

 

不便だな、めんどくさいな、だけどしょうがないな、

と思ってやってきたことを

効率化、省力化、時短できないか、ちゃんと考えることをしよう。

そう思って見直したら、いっぱいあった。

 

例えば、食器類、なぜ陶器なの重いのに、から始まって、

ラップかけるのめんどくさいな、になって

 

セリアで蓋つきのタッパーらしくないタッパーのようなものを見つけて

使ってみたら、すっごくいい。

食洗機に蓋まで入れられる

食器がわりに使っても違和感がない。

 

セリアのタッパー 

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陶器の器を全部捨てて、全てセリアの

蓋つきのものにしようか、

真剣に考えています。

 

掃除がめんどくさいのは掃除がしにくいから、

掃除がし易い環境とは、床に物を置かない。

 

物は使って幸せになるためにあるので、

使わないものは捨てる。

 

なんか少し家事が楽になった気がします。

 

 

2週間で人生を取り戻す! 勝間式 汚部屋脱出プログラム (文春文庫)

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