イケザワキッチンは週休4日

高知に住んでるおばあさんの日記

【模範嫁を訪ねて】昭和21年頃20歳で結婚したみち子さん

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

みち子さんの出会いと結婚

みち子さんの夫は終戦前に県内に戻っていたので、

終戦になるとすぐa村に帰ってきた。

夫の家はみち子さんの実家よりも大きな農家で遠い親戚でもあった。

 

「親戚関係が絶えないようにしたいので、嫁にきてくれないか」

と言われて昭和21年頃結婚した。

当時の結婚でも20歳そこそこでの結婚は早い方だった。

 

長男の嫁、ということに対する不安はあまりなかった。

「来てくれんか」

「行くかよ(行こうかね)」という感じで、苦労するなど全く考えてなかった。

 

実家はコメに不自由しており

「嫁にいけば食べるものには不自由しないし、どうにかなるよ」と言われ

「行かな、いくまいか」と思って結婚したという。

 

当時婚家には80歳くらいの義そふと義父母と義兄弟4人がいた。

一番下の義弟は小学校1年生だった。

みち子さんより1歳年下の義妹もいた。

 

義父母からは「みち子よ」と名前で呼ばれ、

義兄弟からは「姉さん」と呼ばれていた。

義祖父の最後は義母が看取った。

 

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結婚生活と農家の暮らし

 

朝起きたらすぐに窯に薪で火をおこした。

そして、ご飯を炊きおかずや味噌汁を作る。

当時はコメがあまり無い時代だったこともあり、

コメに里芋や田芋などのイモをサイコロ大に切って乾燥させたものや

ゆがいた麦を混ぜて炊いて食べていた。

 

炊き方が悪いとうまく炊けなかったこともある。

また、田芋の皮むきでよく手が痒くなった。

田芋は煮ておかずにもした。

 

炊き上がったご飯はおひつ桶へ移した。

遅くとも6時半には家族一緒に食べていた。

義母も元気なうちはご飯をよそったり、義妹も味噌汁をついだりしていた。

これが毎朝の台所風景だった。

 

昭和27年に電気がつくまでは、夜の作業や子供のオムツを帰るといったことも全て

ランプの灯りを使ってしていた。

「灯油はたいてい切らさざった」と言うが、

たまに灯油を切らした時には松を焚いた。

水は谷から竹を伝わせて、池に作った船に入れたものを使った。

火は竈(かま)である。

 

結婚当時は義兄弟姉妹と義父母と義祖父とみち子さん夫婦の9人家族であった。

そのため毎日鉄の5升釜で米を炊いた。

大きな鉄釜はもちろん、蓋もとても重い。

毎日重い鉄釜を扱ったり、他の農作業からくる負担も重なって

みち子さんは腰を痛めてしまい、その後は夫を起こして釜を降ろしてもらっていた。

 

また、義理の兄弟や姉妹たちに手伝ってもらいながら

家族が食べる米を搗(つ)いた。

一度に5升搗いたが家族が多いため二日に一度はしなくてはならない大仕事だった。

 

ガスもなく、台所用や風呂用に薪を取りに行くことも大切な仕事であった。

雪が降る日でも薪を取りに行った。

子供を背負って薪を切ったこともある。

平成10年に家を建て直すまで、風呂は薪でたいていた。

 

みち子さんはいつも仕舞い風呂だった。

風呂から上がってもすぐに寝ることはできない。

それから皆んなで夜なべ仕事をしていた。

 

洗濯は、義妹たちの分は義妹たちが、義父母も分は義母がしていたので、

みち子さんは自分たち夫婦の分と子供のオムツだけ洗濯した。

今のような洗濯機はなく、たらいで手で洗っていたので昼までかかった。

もちろん脱水機もない、冬は洗濯物が凍ってバリバリになることもあった。

 

昔はゴムの手袋もないのでヒビやアカギレができて、

血が出ることも度々あって痛い思いをした。

洗濯機を購入したのはこの地域でも最後の方だった。

「買うてもろうた時にはうれしかった」と当時を振り返る。

 

 

働きながら5人の子を出産

 

昭和23年7月に長男が生まれ、27年に長女、29年に次男、33年に次女、36年に

三男が生まれた。

長男や長女が生まれた時には義母は元気で子守をしてくれたが、

次女の時には体も弱ってきてていたので、子供を背負うことができず、無理のない範囲で次女の遊び相手をしてくれた。

三男誕生の頃には、子守はまったくできない状態で床についていた。

 

この地域の人々は皆働き者で、本当によく働く。

みち子さんも一生懸命働いた。

身重の体であっても自分が持てる限りの重い荷物を担ぐので

「子供が出りゃあせんろうか」と思うほど腹に力が入り、しんどい思いもした。

 

陣痛が来るまで働いて、翌朝産まれたこともある。

自宅で出産した。

同じ部落の人たちは産婆さんに取り上げてもらっていたが、

みち子さんの家では産婆さんは雇ってもらえなかった。

 

義母が元気だった頃は義母が取り上げ、弱ってきてからは、

夫がへその緒を切って子供を洗った。

長男が産まれた時は1ヶ月ほど休ませてもらった。

しかし、長女の時以降は産後すぐに、直接言われるわけではないが、

部屋の外で枕元まで聞こえる大きな声で

「あれしなくては、これしなくては」と義父をはじめ周囲が忙しく働いていたし、

もっと安静にしていなさい、と言ってくれるほともいなかったため、

休んではいられなかった。

 

産後休み脆くにすることもなくすぐに働き出した。

忙しい時期に出産した時は、出産して10日後には田んぼに入った。

さすがに「背中が張ってづつなかった(辛かった)」と言う。

 

身体は小柄ながら母乳は出たが、末の子供時は母乳が足りず、米の粉を臼で挽いて

沸かして飲ませた。

その頃には粉ミルクも出回っており、さじで飲ませていたが

現金を出して買わなくてはならない粉ミルクをそんなに飲ませられる余裕はなく、

ほとんど米の粉汁だった。

 

じっくりと乳を飲ませていると

「こら、もうええぞ、(授乳を)やめんかえ」と義父に言われたこともある。

ゆっくりできたのは寝ている時だけだった。

 

春には田んぼ、冬には炭焼き、そして毎日の夜なべ仕事

 

今のように自動車はもちろん、農作業用一輪車(猫車)もない、すべて肩仕事、

田んぼ仕事も耕運機も稲刈り機もない、ぜんぶ人力の時代である。

結婚前の実家で草刈りの手伝い程度の経験しかなく、

みち子さんは百姓仕事をしたことがほとんどなかった。

その上にみち子さんの体は小さかったため、力の入れようもわからず

毎日の生活は骨が折れたという。

 

夫は「かかあ貰うには貰うたけど、あれは百姓ようするか、どいたち(どんなに言っても)小んまい指じゃ、あれで百姓ようするろうか」

と友人に話したという。

年の近い義妹は、米俵を2〜3抱えて蔵へ入れるほどの力持ちで、

義父に「(みち子さんは米俵を)ようかかん(担げない)」と言われて、

悲しい思い出もある。

 

できないとはいえ、嫁に来たからにはしなければならない。

みち子さんは「こんなもんじゃろうか」と思いながら作業をしてきた。

当時は草を刈ることもよく知らず、農作業のすべてを夫に習った。

牛馬用の短い草を束ねるのは難しい。

また束ね方が悪ければ、運ぶ時に抜け落ちてバラバラになってしまう。

これも夫に習って上手になった。

結婚した当時は小さな華奢な指だったが、今ではすっかり指の節も太くなった。

 

春には山菜採りや畦塗りなどの田んぼ作りや畑作りが始まる。

はじめは土地を耕すために馬を飼い、後には牛を飼っていた。

夏は朝の涼しいうちに作業をする。

そのため4時か4時半に起きた。

庭にむしろを敷いて朝食を済ませ、食後すぐに草刈りに行った。

 

刈った草は畑に入れたり、牛馬の肥料にした。

夏は仕事から戻って昼食をとった後に、みんなで昼寝をする習慣があったが、

みち子さんは癖になるからと自分に言い聞かせ、決して昼寝をしなかった。

 

台風の時には、倒れた稲を藁で束ねて縛り、起こした。

刈り込む時はそれを外して、刈る。

とてもとても、手間がかかった。

それをすべて素手でやった。

 

今はヘリコプターで殺虫剤を撒くので楽になったが、

当時は稲に付いた虫を殺すために、油をまいて田に膜を作った。

それから、稲を竹の棒のようなものでたたいて揺すって、虫を落とす。

虫は油をまいた水に落ちて窒息死した。

 

下肥を運ぶのは大変だった。

畑や田んぼはあちこちに離れている上、平地でもない。

今のように一輪車もない。

天秤棒で木の担桶を両方に下げて運ぶのは、重動労だった。

五人で丸1日かかる作業だった。

 

秋には天気のいい日に鎌で稲を刈った。

収穫したコメは60キロずつ藁の袋に入れていた。

出産間際の時でもそれを担がなくてはならなかった。

その時は、お腹に力を入れたら子供が飛び出るのではないかと思うほど辛かった。

 

収穫したコメを旧盆ごろにリヤカーに積み、義父がD町まで直接売りに行っていた。

米の後には麦も作った。

芋の収穫の時は、リレー式で男も女も一緒に同じ量を運んだ。

また、11、12月には掘った芋を、切ってゆがいてカラカラに干し、

藁で編んだ叺3、4袋に入れて貯蔵した。

 

叺(かます)一袋に約30キロは入った。

その季節は干し芋を毎日作った。

2、3月ごろにそれをご飯に炊き込んで食べた。

冬でも4時半か5時には起きた。

外はまだ暗い。

 

みち子さんの家の前には墓がある。

夏は草が生え茂って墓も草に埋もれるが、

冬場にポツンと新しい墓が見える時などは寂しかった。

この地域は今でも土葬である。

 

冬には炭焼きの仕事がった。

炭焼き場は家から2キロほど離れており、そこまで歩いて行った。

「ずっと山の上」からなんども材料の木を伐採し、下に放り落とす。

はじめは白炭を焼いていたが、徐々に黒炭になった。

夜通し火を焚いて、大きい木に火がついたら蒸し焼きにするために

赤土を練り、空気が入らないようにそれで口をふさいだ。

 

その状態にするまでが大変なのだ、

少しでも口が開いていると燃えてしまい、ただの消し済みになってしまう。

炭焼きは一度火入れをしたら、3日くらいは火を消さないように、

燃やし過ぎないように、寝ずの番をした。

 

また、毎日様子を見に行った。

そうしながら、次の炭作り用の木の調達にも行った。

みち子さんも今となってはあまり覚えていないが、当時はそんな風にして

炭焼きをしていた。

 

結婚当初からずっと、こういう仕事をしていた。

家族全員で朝から晩までよく働いていた。

作休みなどは、田植えが済めが一日あった。

あとは虫供養休みが一日。

お盆の時は自由に三日間休んだ。

それ以外は休みなどなかった。

 

昼間の仕事が終わると夜は寒い時期でも、土間に座って仕事をした。

炭を入れる俵や芋を入れて担う袋のホゴや縄を編んだり、

馬や牛につける道具や農具を作ったり、手入れをしたりした。

 

みち子さんの夫も道具や農具を作ったが、

とりわけ義父は特に上手だった。

戦後間もない頃で足袋もなく、素足に草履の生活だったから、

その草履も毎日の夜なべ仕事で編んでいた。

 

冬は暖房といっても囲炉裡しかなく寒かった。

しかし力仕事をする時は体が温まるのか、

雪の降る日でもみち子さんは寒さを感じなかった。

また、戦前の世代や義母は蚕を飼っていて、

糸を紡ぎ布を織っていた。

みち子さんは機織りはしなかったが、布地を買ってきてもらって、

夜や雨の降る日などに、子どもたちのふくや自分の服を縫っていた。

ズボンやモンペの破れも縫った。

子供が学校へ行き始めた頃は、義父に頼んで子供服を買ってもらった。

 

義母の介護

 

少しずつ体が弱っていった義母は昭和34年ごろから床に着いた。

そのころの義母の病状は「ゴゾリゴゾリ歩きよっては、ダーツっと走り出して、

誰かに止めてもらわんといかんようになっていた」と言う。

 

義母が寝込んでからは夜にトイレの介助のために、度々起こされた。

トイレは母屋から離れた庭の隅にあるため、

義母に起こされると、みち子さんは腰を痛めていたので

「お父さん、また起きてや」と夫を起こし手伝ってもらった。

 

晩年の4〜5年間、義母は自分で寝返りも打てない状態であり、

床擦れができないように再々気にかけて寝返りをさせた。

床擦れの予防法を地域巡回の保健婦に教わることもあった。

この頃から義母はオムツを使い始めた。

 

義母に食欲がない時などは卵入りのおかゆやおじやを食べさせたが、

基本的には義父と同じものを出していた。

義母はお酒が大好きで、2人ともよく晩酌をしていた。

義母は昭和44年の年末に72歳でなくなった。

その時義父は75歳だった。

この6ヶ月後に義父が倒れた。

 

表彰と義父の病気 

 

模範嫁としてみち子さんを推薦したのは、

よく義母を見に来てくれていた保健婦さであった。

受賞のことを教えてくれたのもこの保健婦さんだ。

みち子さんは受賞を知った時

「私らあみたいな人に、こんなもん貰われんにね」と思った。

しかし保健婦が

「頑張ったんじゃけん、村からこうしてくれたがやき、そんな心配はせんちかまん」

と言ってくれた。また、夫は

「よかったねえ、おばあの世話してくれたけんねえ」と言ってくれた。

 

近所の人たちにも

「まあ、みち子さん、骨折った甲斐があったねえ、ようやったけんねえ」

と言われ、嬉しかったと言う。

それが励みにもなった。

義父も実家の家族も喜んでくれた。

 

表彰式に着ていく服は作ってもらった。

「表彰式に行かないかんに、着るもんがない。困ったねえ」と言っていると

夫が「そりゃあ、こしらえなあいかんじゃいか」と言い、

c市で生地を買って服を新調してくれたのだ。

 

村役場か民生委員のどちらかと一緒に、みち子さんは表彰式の行われる県庁に行った。

往復費用は役場の方で出してくれた。

表彰の記念品として、急須とお盆、手紙入れを大きな風呂敷に包んでもらった。

うれしかった。

今でも急須もお盆も大切に使っており、表彰状は額に入れて飾ってある。

 

模範嫁表彰を受けて、老人洋上セミナーに招待された。

義父母とも亡くなった数年後に、老人クラブの人と一緒に3泊4日で東京方面へ

旅行に出かけた。

みち子さんにとって、結婚後初めて、子供、夫とも離れての旅行であった。

旅行中に圏内の模範嫁たちと親を世話したことなどをお互いに話しああった。

みち子さんはそこで知り合った人といまだに手紙のやり取りをして、

長い付き合いをしている。

 

義父は外出先のa市で具合が悪くなった。

同行していたものが、診察を受けてから帰ろうと言ったにも関わらず、

そのまま村に帰ってきた。

義父は寝付くことはなく、

なくなるまでゆっくりであればなんとか一人で歩くことができた。

詳しい病名などはわからない。

 

義父はこの地域の中でもとりわけ働き者の仕事師だったので、

意識がしっかりしている分身体の自由がきかなくなってからは、

随分とやけを言ってはみち子さんたちを困らせた。

口が達者で何かにつけて注文が多く、いろいろなことに対して文句を言った。

しかし、仕事はできなくても歩くことはできたため、

義父はオムツを使うことはなかった。

義父は血圧が高かったこともあって、倒れて亡くなった。

 

お金のことは蚊帳の外

 

お金の管理は全て義父がしていた。

何か必要なものがあると、その都度に義父に頼んでお金を出してもらった。

「ジイさんはにぎり(ケチ)じゃったけん。」

義父は部落でも水らしいほどしわい(執着を持った)人だった、

子供の学校の費用もすぐには出してくれなかった。

 

家計は義父が倒れてしばらくして夫が預かったようだが、

農作業以外の服を買ってもらうこともなかった。

農作業着は傷みが早い。

重いものを担いで服が擦り切れたり、虫除け用の油でズボンが破れたりするからだ。

そういった事情もあって、農作業用の服だけは度々買ってくれた。

 

辛い時には実家に帰りたいと思ったが、子供が可哀想と思い止まった。

子供が小さい頃は盆や正月には子供を連れて里帰りさせてもらった。

「今度実家に行ったら(義父母や義兄弟との関係などもろもろのことを)

親に話そう」と思うのだが、実際に話したことは一度もなかった。

話せば親に心配をかけてしまうからだ。

 

みち子さんにとって一番のささえは夫だが、つらい胸の内は夫にも話さなかった。

今になると

「お父さん(夫)にでも話したらよかったねえ」

と思うが当時は話すことはできなかった。

 

夫は里帰りの時小遣いを持たせてくれた。

当時みち子さんは家の金を工面して渡してくれているのだと思っていたが、

実は里帰りのためにわざわざ夫が友人から借りて持たせてくれていたことを、

ずいぶん後になって知った。

どうやって借金を返したのかは今でも不思議だ。

 

「色々あったねえ、まあ、みんなそんなことがあるがよ、私ばっかしじゃあるかよ」

とみち子さんは言う。

 

たどりついた今の暮らしについて

 

介護保険サービスを利用してもしなくても、対象者は全員保険料を払わないといけない。利用する時にまた利用料を払う。このことについて

「妙におかしいねえ、かかってから払うてもよさそうやにねえ」とみち子さんは思う。

老後、自分自身に介護が必要になった時、自宅で介護してもらいたいかどうか、

みち子さんはわからないと思っている。

 

息子の妻は仕事に出ている。

自宅で介護といっても、いつどうなるかわからない。

ただ、元気でいたいと思っている。

 

みち子さんが結婚して以来初めて夫と一緒に旅行したのは、

昭和56年にf県に嫁入りした娘の結婚式であった。

娘は学校を出た後g県で就職したが、その後f県に会社が移り

そこで相手の男性と出会った。

娘が遠くへ行くことになるため、夫は娘の結婚を反対したが、

本人が結婚したいというのでしかたがない。

結婚式が終わり高知へ帰る時に夫は泣いていた。

その泣き顔をみち子さんは今でも忘れられないと言う。

 

娘の夫は優しくていいひとで、娘は義父母からも可愛がられて幸せだという。

離れているが電話で声が聞けるし、娘が幸せに暮らしているならいいと、

みち子さんは思っている。

 

その後夫が亡くなり、みち子さんは今別棟に住む息子夫婦や孫たちと同じ敷地内に暮らしていて、国民年金とわずかなアルバイト料で生活している。

約6年前から古い納屋を改造して子供世帯とは別の台所を作り、

「おばあさんは一人で食べるきね」と自炊を始めた。

若い者は若い者の生活がある。

「おばあさんは居られん」と思い自分から食事を別にした。

ある意味ではそのほうが気楽だとみち子さんは言う。

 

朝、この部落7軒に新聞配達をし、

帰ってきてお茶を沸かして、仏様を拝んで

それから、食事をして洗濯をする。

テレビドラマをみて、

畑へ行って野菜を作る、

のが今のみちこさんの日課である。

 

 

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【模範嫁を訪ねて】昭和18年20歳で結婚したはな子さん、17年間寝た切りの義母を介護

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

はな子さん

 

出会い・結婚

はな子さんは大正12年4月A市に生まれた。

実家は本当に小さい小作農家だった。

貧乏で生活はいつも苦しかった。

結婚する前は農作業の手伝いもしたし、子守奉公にも言った。

そして、義母の里が紙すきをしており、そこの手伝いをしていたはな子さんは

その働きぶりから見込まれてお嫁に行くことになった。

 

昭和18年、はな子さん20歳の時に結婚した。

夫は22歳で当時の国鉄に勤めていた。

日本中が戦争、戦争で駆り立てられていく時期だった。

贅沢は敵だと言われ、化粧やパーマをするのは非国民だと許されず、きれいな着物さえきられなかったし、物もなかった。

 

時代が時代だけに結婚の祝いは質素なものだった。

結婚の日、乗合バスで婚家へ行った。

両親は来ず姉が一人ついてきてくれた。

裾の長いよそ行きの着物の中で一番いいものを着た。

 

婚礼の翌日から立ち働いた。

夫は結婚してまもなく広島など方々へ出張していた。

甘い新婚生活ということはなかった。

二人だけでゆっくり語り合うこともない。

 

家族

夫は6人兄弟の長男で、結婚当初から夫の弟妹も両親も同居だった。

当時の義弟妹の年齢は、はっきりとは覚えていないがすぐ下が18〜9歳、

間に3人挟んで末の弟は3歳だった。

はな子さん夫婦との年齢差は4〜5歳で兄弟のように育った。

義母と一緒に夫の弟妹も育てたような感じである。

 

義母もまだ38〜9、義父は義母の5歳違いで43〜4歳ぐらいだったように思う。

当時義父は木を切るなどと行った山仕事の日雇い労働をしていた。

義父ははな子さんのことを「ねえよ、ねえよ、」と呼んでいたが、

義母は名前で呼んでくれた。

やはり名前で呼ばれるほうが嬉しかった。

 

出産と戦争

昭和19年に長男が生まれた。

生まれて1ヶ月ほどで夫は兵隊にいった。

3年ほど沖縄に行っていた。

その間は食糧難だったため、はな子さんは芋を作り、働きにも行った。

敗戦前の大変な時期で自分の服も子供に着せる服もなく、オムツもボロボロになっても使っていた。

 

長男は夕方になると泣き始め、食べ物がない時代で母乳もたくさんは出ず、100日目ぐらいからお粥を食べさせたりしていた。

夫は兵隊に取られて家にいなかった。

オムツがない、着せる物が無い、おまけに食べるものもない。

誰もが自分のことだけで精一杯で、助けてくれる人もいなかった。

あんな大変な思いはもう2度といやだ。

戦争と言ったら身震いがする。

 

はな子さんのすぐ下の弟も戦争に行った。

また次の弟は特攻隊に入ったが、終戦間際だったため難を逃れた。

そして終戦。みんな無事に帰ってきた。もちろん夫も。

不幸中の幸いだった。

 

昭和22年に長女を出産した。

陣痛がくるまで通常どおり働き、長男も長女も助産婦をしていた義祖母が自宅で取り上げた。

産後は10日ほど休み、約1ヶ月間は重いものなどは義母や夫が運んでくれた。

子供の風呂ははな子さんか義母が入れた。

夫は時々オムツを洗うと行ったこともしてくれた。

 

夫の結核と子供の学校

結婚前の徴兵検査の時から、夫は少し肺に影があるといわれたいた。

しかし戦争も終盤に近ずいていた昭和19年、夫は召集されていった。

その時に義母が方々の病院へ連れていって診てもらったそうだが

「それは治った後、固まっちゅうがよ、大丈夫」といわれたそうだ。

 

兵役から戻った後の昭和26年に、夫の結核が再発して入院することになった。

費用は国鉄が見てくれ、3年ほど入院していた。

その間も国鉄が基本給ほどの現金を支給してくれたため随分助かった。

とはいえ、それだけで一家を養っていくことはできない。

 

そのうち子供たちの学費も必要になってくる。

当時はすでに田を作っていなかったため、働いて食べるより他に仕方がなく、

そうなるとはな子さんが働くしかなかった。

B会社に仕事があったのでそこで働いたり、いろんな所で働いたりしたものだった。

義父も少し働いていた。

 

子供に関しては特に心配なことはなかった。

長男には高校に行かせてあげることはできなかったが、

彼は自分で夜間の学校に通った。

3つ下の長女は長男が

「高校ぐらいは出ちょらないかん、ちょっとみちゃうき」と言って

少しずつお金を出してくれて高校を出た。

 

その頃になると、義兄弟のほとんどは育って家を出ていた。

当時義母は末の義弟を大学にいかせて教師にするために働いていた。

義弟が教師になったら自分が義弟に付いて行こうと考えていたらしいが、

結局、彼が大学を卒業する前に義母は倒れてしまった。

 

義母の介護

それは、戦中戦後の大変な時期に子育てで苦労しやっと子供も大きくなって、という

時だった。

昭和36年8月はな子さんが38歳の時、義母は中風で倒れた。57歳ぐらいだった。

倒れて1週間か10日ぐらい意識がなかったため、病院へ入れてもらおうとしたが、

受け入れてくれなかった。

 

そうなると家で看ざるを得ない。

その当時A市の医者が往診に来てくれ、鼻からチューブで流動食を注入してくれた。

それがなければ1週間や10日も何も食べずに助かることはなかっただろう。

しかし、それからが大変だった。

 

全然言葉がわからない。

義母が伝えようとすることを全く理解できず、どういう要求をしているかがわからない。それには一番苦労した。

義母はもどかしく思うし、はな子さんは当惑する。

それは難儀なことだった。

 

そして左手足の麻痺。

今だったらリハビリで少しは座ることができるくらいにはなれたろう。

しかし、当時は動かしてはいけないといわれていた。

そして本当に義母の体は固まってしまい、自分で動くことができなくなった。

床ずれができるため、動かして姿勢を変えてあげなくてはならなかった。

 

食事は身体が回復するまではな子さんが食べさせたが、その後右手は使えたため自分で食べるようになった。

特に義母用に食事を用意することはなかったが、固めのものは細かく刻んで出した。

その後2〜3回発作が起こったが、それでも生き長らえることができ、

17年間寝たきりの生活を送った。

 

義母が倒れた当初は一時期仕事も休んだが、

しかしそう長く働かないわけにはいかなかった。

家にいた詳しい時期は覚えていないが、比較的早くに仕事に復帰した。

はな子さん夫婦が働きに出ている昼間は、家の近所に住んでいる義妹がきて、洋裁をしながら義母を看てくれた。

夜は義父が義母と一緒に休み、朝も義父が義母の顔を洗ったりして

みんなで介護した。

 

義母は右手が使えたので2つほど用意したおまるを替えながら、

自分で排泄物を取っていたため、ずいぶんと助かった。

現在なら入浴サービスもあるが当時はそんなものはなく、

寝たきりになってからは風呂に入れなかったので、

体を拭いてあげるより他になかった。

 

初めのうちはそうでもなかったが、やはり排泄物には一番苦労した。

現在のように紙オムツがあるわけではない。

義母も後の方はオムツでとるようになった。

義母のオムツには浴衣やネルの古着を使った。

 

大人だけに尿の量も多い。

尿が他で濡れてしまわないようにオムツカバーも使った。

しかし、そんなに長い期間オムツを使った記憶はない。

 

亡くなる3〜4年前から物が言えなかったため、よくわからないが少し痴呆が始まっていたようだった。

それまではおまるで取っていたが、夜中におしっこをしたで寝ている義父の布団の上に撒いたり、便をつまんでは畳へ捨てたり、頭に持って行ったりするようになった。

着物や布団を替えたばかりの時でもそんなことをするようになっていた。

そこでみんなで考えあって、義父が木のベッドを作り腰が当たるところに穴を開け、

その下に排泄物を受けるバケツを用意して取るようにした。

 

その前に保健婦さんから聞いた、丸い穴を開けたマットに排泄物を受ける丸い器を入れたベッドというのを使ってみたが、

手を持って行ったりするので使えなくなった。

そこで、それを見本にして、考えて作ったのだった。

このベッドは3〜4年ほど使った。

 

義母が倒れて2ヶ月後の10月に、夫が結核による2度目の入院をした。

約1年入院していた。

はな子さんは生活のための仕事、家事、介護のために

夫のところにはそう再々は行けなかった。

 

生活

家事はほとんどはな子さんがしていた。

当時は現在のようにガスも電気もない。

朝ごはんを用意し、自分用と長女用のお弁当を作るために、毎朝5時に起きた。

そして、7時半ごろ仕事に出かけた。

 

仕事が終わって家に着くと夕方5時半を回っていた。

それから夕食の支度。

仕事から帰ってきて、まず薪を焚いてご飯を炊いたりしなくてはならない。

当時は当たり前のことだったとは言え、それはもう大変だった。

 

また、夜のうちに洗濯をして干した。

手で洗うためなかなか乾かず、雨の多い時などは着替えにも困った。

当時家の裏には井戸があり、水は全て井戸の水を鶴瓶で汲み上げて使った。

洗濯物は家で洗い、すすぎは近くの川に夜でも行った。

時には子供を連れて行ったこともあった。

 

冬になると井戸の水が枯れる時期がある。

風呂を沸かす水も井戸の水を使ったが、その時期は川から汲んできた事もあった。

川までは汲んで帰って来るのに4〜5分かかった。

約10リットル入る大きなバケツが付いた天秤棒を使って、水を担いでいた。

風呂をいっぱいにするためには、大きなバケツに7〜8杯程必要だった。

つまり4往復しなくてはいけなかった。

 

そうして、はな子さんが布団に入るのは夜9時ごろだった。

 

仕事

はな子さんは採石場で働いていた。

その当時休みの日は雨の日だけだった。

30日間続けて行った事もある。

自分に用事があるとにに休むという形態だった。

 

別の会社へ原料の石をわりにも行った。

暑い夏でも、照り返しがひどく影ひとつもないような石の上で働いた。

目だけ光っているかのように日焼けした顔になった。

本当にきつくて、辛いものだった。

しかしいくら仕事で疲れても、家へ帰ったら家事や介護が待っているのだ。

 

毎日働きながらの介護生活に

「いつまで続くのだろう」

と思ったことがあった。

仕事帰りに

「ああ、もうあの家に帰るのはイヤ。どっか行きたいな」

「何で自分一人がこんな難儀をせないかんか」

と思ったりもした。

「このまま、一生こんなもんか」とも思った。

 

しかし、そんないろいろな思いを口に出すことはできなかった。

自分がするより仕方がない、長男の嫁の宿命だ、と受け入れるしかなかった。

本当に長い長い苦労だった。

 

 

夫の協力

 

テレビがではじめた昭和40年前後、義母が寝たきりで何もできず退屈しており、

はな子さんもあまり外へ出られなかった事もあって、

当時高嶺の花だったテレビを夫が無理をして月賦で買ってくれた。

テレビは義母にもはな子さんにも、良い慰めになった。

 

近所の子供達もよくテレビを見にきたものだった。

洗濯機、炊飯器なども出始めた時に無理をして買ってくれた。

洗濯機を買った頃はまだ水道になっていなかったため、

結局すすぐのは川に行って手でしていたが、それでも洗う手間は省け

絞るにしても以前よりだいぶ効率的になった。

 

こういうことに関して夫はとても協力的だった。

はな子さんの苦労を夫も感じていたのだろう。

苦労を少しでも減らそうとしてくれる夫の心遣いは、本当に嬉しかった。

ご飯のおかずを作ってくれた事もあり、それでずいぶんと助かった。

 

孫の誕生

 

昭和46年に孫が生まれ、年子で次の孫も生まれたため、

長男の妻に無理がいってはいけないということで、

昭和47年に仕事は辞めた。

それからずっと家にいた。

孫の守りをしたり、子供を預かったりもした。

 

最初は近所に住む看護婦をしている親戚の子供を2年、

義母の介護もしながらその子供が3歳ぐらいで保育園に行くようになるまで預かった。

昭和53年に義母が亡くなったが、その後も二人ぐらい預かった。

 

それからはほとんど外へ出ることはなかった。

はな子さんが60歳を超えた事もあるが、義父がほとんど出て行く人ではなかった事もあり、お昼を食べさせたりしなければならなかったからだ。

 

表彰

 

昭和50年、模範嫁の表彰を受けた。

表彰式には息子が車で連れて行ってくれた。

表彰に対する夫や義妹の反応ははっきりと覚えていない。

義父は直接はな子さんに特別なことは何も言わなかったが、

新聞の取材で「どんな嫁か」と質問された時

「100点満点」と言ってくれた。

義母はその頃痴呆もあったので

はな子さんの表彰のことは、知っていたかどうかはわからない。

 

近所の人たちは

「表彰されたねぇ」

「大変じゃったねぇ」と言ってくれた。

長男は結婚していたため、長男の嫁にもいろいろ世話になった。

 

表彰を受ける知らせがあった時、

はな子さんは自分が表彰を受けて良いのだろうかと思った。

模範になるというより当たり前のことをしているだけだ、

と当時夫も長男が両親をみるものだと考えていたし、

はな子さんも長男の嫁だから当たり前、宿命とさえ思い覚悟していた。

 

しかし、さすがにこんなにも長い間介護生活を送るとは思っていなかった。

今考えてみると、大変な生活をよくやったと思う。

「今だったらなかなか、若かったからできたことですけどねぇ」

とはな子さんは当時を振り返る。

 

表彰状は夫が飾っていたが、はな子さんが自分で下ろして押し入れにしまった。

今もそのままである。

表彰状と一緒にいくつか記念品をもらったが、何を貰ったかはもう忘れてしまった。

表彰状を受けた2〜3年後、老人洋上大学に参加した。

「さんふらわあ」というフェリーに乗って鹿児島へ。

一人では行く気にならなかったが、近所に参加する人がいたので一緒に行った。

 

結婚してからの初めての旅行である。

船内には、自分と同じような苦労をしている人がたくさんおり、

宿などで彼女たちとそれぞれの苦労や悩みを語り合った。

それは良い慰めになった。

そして、その日は何もしなくても座っていればご飯が出てきた。

何よりの褒美だった。

 

義母の死

 

義母は昭和53年の4月に亡くなった。

昭和36年の8月から約17年の介護生活だった。

この17年間は決してはな子さん一人で看てきたわけではない。

義父の手助けもあった。

家族の皆んなが協力してくれたからこそだった。

もし、一人での介護であれば、17年もの間はなかなか難しいかっただろうと思う。

 

義父の介護

 

義父は100歳の表彰を受けた。

野菜畑の草を刈ったり耕したりということが好きらしく

それが生きる全てのような人だった。

どこへ遊びに行くでもなく、毎日同じことをして元気に過ぎしていた。

 

しかし、平成11年4月下旬から寝込むようになった。

再び介護の日々がはじまった。

 

はな子さんの体も昔ほど無理が聞かなくなっていたが、

義父は頑固でわがままなところがあり、何でも自分の思い通りでないと

カンシャクを起こした。

 

オムツを使うとひどく嫌がり、オムツをのけると酷く汚してしまう。

汚物に手を突っ込み、排泄物をなすり付けてまわった。

その匂いはいくら拭いてもなかなか落ちない。

家の中もとうぜん臭くなる。

 

義母の時にはあまり怒った記憶はないが、

痴呆とわかっていても義父には少しきつく言ったこともあった。

しかし、基本的には昔とは比べ物にならないくらい楽だった。

 

義父には施設にも2〜3回入ってもらった。

家事にしても、ご飯は自由に煮炊きが出来る、

風呂を沸かすのも楽、洗濯もボタンを押すだけできれいにできる、

そういうことはほんとうに楽になったことだった。

いろいろなことに進歩を感じるが、何より介護のための様々なサービスが

使えるようになったことに、介護の困難さが軽くなったことを感じていた。

 

入浴などの介護サービスを受けるとき、他人が家の中に入ってくる。

実際にそういうサービスを義父の介護で利用したが、

他人が家の中に入ってくることの嫌悪感などはな子さんにはなく、

むしろ、「ありがたい制度ができて嬉しいことじゃ」と思った。

(家に他人が入ることを嫌がる風習があった)

 

体を拭くだけでは気持ち良くならないし、冬は寒くてそれもできない。

義父は風呂が好きではなかったが、それでも入れてもらえば

気持ちがいいのでずいぶんと喜んだ。

 

義父は平成12年8月に102歳で亡くなった。

大往生である。

義父が寝たきりになってから亡くなるまでの

1年4ヶ月、義父を介護した。

 

「もう、やっと解放されました」とはな子さんは言った。

同年10月27日に末の義弟も義父を追いかけるようにして亡くなった。

義弟は学校の教師をしており、その年の春に退職したばかりだった。

 

1年に二人ということで、一時期その取り込み用は大変なものだった。

四九日の法要もすみ、最近やっと落ち着いて来たところだ。

 

現在の体調

夫は若い時には体が弱かったが、

この頃ははな子さんよりも元気で、ゲートボールにも言っている。

 

最近はな子さんは夜の11時や12時ごろまでなかなか寝付けなくなった。

そうすると、翌朝は夫が起きて味噌汁を作ってくれたりしている。

買い物も夫に任せている。

 

はな子さんは今少し心臓が悪い。

若い頃から心拍数は低めだったのだが、夜の一番低い時には28ほどしか打ってないと

聞いた時には、流石にびっくりした。

昼でもだいたい44〜5くらいである。

ペースメーカーを入れるか入れないかの境目の状態だという。

 

膝や腰も痛くなりはじめた。

また、少し血圧が高く、夫が血圧計を買ってきてくれてからは、

日に何度も図っている。

「もう神経じゃ(気のせい)」と夫には言われるが、

中風には絶対になりたくないので、つい神経質になってしまう。

 

今は血圧のことが一番気にかかっている。

自分の時には人に世話を焼かせることなく、朝起きたら亡くなっていたというように

ぽっくり逝きたいとはな子さんは願っている。

 

長男夫婦は今近くに住んでおり、それは心強いのだが、

自分がしたような苦労を嫁さんには絶対にさせたくない。

人に世話を焼かせたくない。

そのことが一番頭にある、という。

 

これからの介護

自分の先のことを考えると、介護保険は必要だと思う。

家で嫁一人が付きっきりでずっと看るということは無理なことだ。

お互いに少しずつ人手やお金を出し合い、みんなに看てもらうということは

とても良いことだと思う。

 

「私らぁみたいに世話したもんでないと分かりませんでしょうけどね、高いとか何とか言いますけどね、少々のお金には変えられませんもんね」

とはな子さんは言う。

 

今になって考えてみれば、模範嫁として表彰状をくれるよりも、

入浴サービスなど少しでも実質的な手助けをしてくれた方が、

よほど有難かっただろうと思う。

 

介護は一日も手抜きができないものである。

今日は一日食べずにいて、というわけにはできないからだ。

自分の体が辛い時であっても人の面倒をみなくてはならないと言うのは、

ほんとうに辛いものである。

そういう意味でも、今ショートステイなどが使えるという制度になったのは、

ありがたいことだと本当に思う。

 

義父が寝付いているときに、夫と二人で風邪を引き熱が出たことがあった。

その時は施設に入れてもらった。

それはとても助かった。本当に嬉しかった。

 

これからの介護として、いつも助けてくれなくてもいい。

しかし、本当に大変な時や手が欲しい時にはすぐその要求に答えてくれる、

そんな体制を整えることが必要だろう。

いざという時には助けてもらえるという事がわかっていれば、

安心して暮らせる体。

 

はな子さんはその体制が早く整うことを望んでいる。

 

 

はな子さん、聞き取り記録 完了  

平成12年度ソーレ助成活動・高知県模範嫁聞き取り調査・研究支援事業

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【模範嫁を訪ねて】昭和29年の春、19歳で結婚したのり子さん

 

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

 

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出会い・結婚

 

A村B地区に住んでいるのり子さんは、洋裁学校に通っているときに、青年団で活躍していた夫を知り合い、昭和29年11月、19歳の時に結婚した。

 

結婚する前は「仕事はそんなにせんちかまん」と言われていた。

 

実家は婚家から8キロ離れたC地区で、やはり農業をしていたが、学生だったこともあり、農業どころか、ご飯を炊くことすらしたことはなかった。

 

結婚したとたん、のり子さんの生活は激変した。

義祖父母夫婦、義父母夫婦、のり子さん夫婦、の3夫婦と義弟、義妹が一緒に同居する大家族の嫁になった。

 

義祖父母には子供がなかったので、義祖夫の年の離れた弟を子供にしていた。

つまり、のり子さんの義父は、義祖父の弟ということになる。

義母はその当時60歳近くで、義弟と義妹は高校生だった。

義妹はのり子さんより1歳年下だった。

 

のり子さんは、義祖母からは「ねえ」と、義母からは「おまん」と呼ばれ、名前で呼ばれることはなかった。

 

 

 

生活

 

結婚した当時、毎日朝は6時には起き、洗濯をしてから義祖父についてD山まで植林に行った。

 

また、1週間に一度市があり義母が行っていた。

義母のころにはリヤカーがあったが、

義祖母の代は天秤棒を担いで山を越えて町まで売りに行ったそうだ。

この家では義祖母の、そのまた母の代からこうして生計を立ててきた。

 

市に出すコンニャク作りは夜中の2時ごろまでかかった。

あとは柿、タイモ、季節の野菜などを出してきた。

 

料理は義祖母がして、義母は専から市や外へ売りに行き財布を握っていた。

義父はもともと病身で、仕事をする状態でなかったが、好きなことはしていた。

義弟、義妹は学生で家へ帰ってからも何もしなかった。

 

働き手はたくさんいたが、それでも近所の人を雇っていた。

農作業は今のように機械化されておらず、全て手仕事、それも素手だったので

なんども手を切った。

 

B地区は水の不自由なところで、谷もなく、山の湧き水を使った。

風呂などは、長い竹の筒で山から引いていた。

雨量の少ない冬場は特に困った。

 

洗濯もまたのり子さんの仕事だった。

「洗濯は畝を超えてずいぶん下の谷まで洗いに行きよりました。当然ですが、地元の皆さんが洗うところでは年寄りのオムツは洗えんと思い、まだずーっと下の方へ持って行ってねぇ・・・。帰りは濡れて重とうなりました」

と当時を振り返った。

 

洗濯機が家庭に入ったのは昭和32年ごろだった。

義妹が結婚するときに買ったのを機に、家にも備えてもらったのだ。

それでも、オムツは谷へ洗いに行った。

 

オムツはネルの古い着物でのり子さんが作った。

雨の日や梅雨時は乾かすのが大変で、炉裏に火をおこしその上にザルを天井からつり下げて、そこに洗濯物をかけて乾かした。

それはのり子さんが考えたのではなく、前からそうしていたという。

 

台所は竃と流しがあり土間だった。

囲炉裏のある座が少しあった。

壁は火が恐ろしいからと、ブロックを立てていた。

「19歳というとまだ子供ですよね、家ではご飯も炊いたことなかったのに、夜も遅くて、ご飯を食べていたらポーンとお茶碗が落ちて、パンっと割れて目を覚ましたことがありました」

のり子さんは今も忘れ得ぬ記憶の一コマを振り返った。

 

子どものこと 

昭和32年と34年に男の子を出産した。

お産の時は家で助産婦さんを雇った。

との時にお祝いのお客(宴会のことを高知ではお客という)をした。

近所から親戚が集まり、節句なども祝った。

 

何かと言っては集まり、酒盛りをする。

そういった風習のある地域だった。

のり子さん自身はお酒が飲めなかった。

「お産の後は一ヶ月ぐらい休ませてもらいました。まあ、洗濯はしたりしましたので、野良仕事はせんかったというだけのことです」と言った。

 

お金のこと

農家に休みはない。

朝から夜まで働くだけの働き蜂だった、と言う。

30キロ、40キロの米俵を担いで山道を行く時、骨がプリプリと荷の重さで砕けそうな気がした。

 

天秤棒を担ぎ、山を越えて炭やコンニャクを持って市へも行った。

それだけ働いても、嫁ということで一銭のお金ももらえなかった。

夫や義妹は勝ってに使っていたが、のり子さんはできなかっった。

実家で小遣いをもらったこともあった。

財布がのり子さんに渡ったのは義母に変わり市に行き始めてからだった。

 

山の中の暮らしは現金収入が少なく質素な暮らしぶりだった。

「ボロになっても継ぎ当てをして着れば、2000円で新しい物を買ったと同じに使える」

と言われ、継ぎ当てしたモンペをはいて市に出ていると、同業者からルンペンみたいだと笑われたこともあった。

 

また、東京の大学へ行っている義弟への仕送りもあり、その当時が金銭的には一番大変だったという。

大学卒の初任給が5万円だった頃、毎月5万円の仕送りは大変なことだった。

 

上の義姉たちもみんな女学校を出ており、義妹は高知市内の高校へ通っていた。

生活は質素でも義母は教育には熱心な人だった。

 

介護17年、義祖父母、義父母の4人を看た

昭和35年に義祖父が寝つき始めた頃からのり子さんの介護が始まった。

最初の頃は義祖母が子供の面倒を見ながら義祖父母のそばに付いていたが、

夜になるとのり子さんも子供と一緒に寝て世話をした。

義祖父は何年も寝込むことなく、翌年3月に亡くなった。

 

次に義父が寝付きはじめた。

義父が入院していた病院はf市の外れにあるe病院というところで、大変に遠い所にあった。

村にも診療所はあったが、かかりつけの先生がe病院にいて、義父がどうしてもということで遠いけれども仕方なく入院したのだった。

 

昼間はいいが、夜は寂しいということで、度々病院まで通った。

夜は最終7時のバスでf市まで行き、朝は市番のバスで帰ってきて後、

休む暇もなく子供の世話や家の事を済ませ、

また夜になるとバスに乗って病院へ通うという生活だった。

 

病院では、夜中でも何かと用事を言われ寝る暇もなかった。

「一時はどうなるかと思いました。若かったからできたのでしょうね。今ならとてもとても無理ですわ」と言う。

 

最後の方は結局は家で看た。

その当時は義祖母も寝付いていたので、義祖母、義父と一緒に看た。

 

義父の部屋は奥で、義祖母の部屋はその手前の小さな部屋だった。

寒い時は寝込んでしまわないように、半纏を着て毛布にくるまって両方の部屋の間にうずくまってうとうとしていた。

村から借りたベッドを使い、寝間着は介護しやすいように上下が分かれた着物風の物を縫った。

 

洗濯物を干していても

「おらんか、おらんか、」とたびたび声をかけられ、夜中には何回も

「おしっこじゃ、」と呼ばれた。

 

綿の布団だと漏らした時に始末が大変なので、

ベッドの上にスポンジマットを敷き、その上にシーツを掛けておいた。

もうその頃には義父はオムツを全部はずし、布団の上でそのままおしっこや便をするようになっていたからだ。

その頃は本当に大変で、自分も倒れるかと思った。

しかし、

「痴呆になって徘徊されるよりは・・・」と自分を納得させていた。

また、

「おばあさんはそんなでもなかったですが、男はねぇ・・・舅は辛抱のない人でした」(怒りまくっていたのだろう)と当時を振り返りのり子さんは言った。

 

昭和50年になり村からヘルパーが派遣されるようになった。

昼間ヘルパーが来て話し相手になってくれると、退屈せず、夜もよく寝てくれるので大変に助かった。

 

当時は家で義祖母、義父が寝ていたので、

「老人ホームみたいや」とヘルパーさんが言った。

すでに入浴サービスがあったが利用せずのり子さんが入浴させていた。

義祖母は体が大きい上に足が弱かったので、浴室までは抱いていったが、浴槽には入れずに大きなタライで洗った。

「痛いところがやわらぐ」と言って毎晩入りたがった。

それでも義母の方は長いこと病院に入っていて家で看たのは少しの間だった、とのり子さんは言う。

 

介護17年、義祖父母、義父母夫婦の4人を看たことになる。

夫は「介護は女の仕事」だと言って全く手伝わなかった。

のり子さんもそういうものだと思ってやってきた。

のり子さんの実母もまた、半身不随の姑を7年間世話していた。

 

それを見て、自分も頑張らねば、と励みにしてきたのだ。

「昔は嫁が働くのが当然で、親を家で看るのが当たり前でした。」

とのり子さんは言った。

 

表彰

 

世話のいる年寄りを誰かに頼んで行かせてもらい、表彰されたいとわ思わなかった。

「十数年お世話している人もいるのに、自分だけが表彰されるのは心苦しかった」

と言う。

表彰のことは夫にも実家の母にも言わなかった。

そして現在に到るまで、夫からは何の言葉もない。

 

義祖父はなくなる前に

「長い間世話になったのう」と言ってくれた。

義祖母は自分の子供ではない弟夫婦の子供13人育てただけあって、気の大きい理解のある人で、のり子さんの子供達も見てくれた。

そう言ったこともあって、義祖母への介護は恩返しのつもりでもあった。

 

また市へ行く日には、夫の兄、姉が介護を手伝ってくれた。

「周りの助けがあってこそです。」とのり子さんは言った。

後に県から茶器と記念品、表彰状が一緒に郵送されてきた。

 

最後に

 

のり子さんの両親はもう亡くなっている。

今は古い家だけがあり、お墓はg地区の方へ持って行ったという。

母が元気な時は

「私の目が黒いうは草を引く」と言ってた世話してきたやまも今では荒れ放題である。

 

「嫁に来てから里帰りとか、そんなにしてないです。私も介護が目の前にぶら下がるようになりました。今度は主人を看る番です。」と言った。

のり子さんは現在長男夫婦と孫と一緒に暮らしている。

介護のことで、嫁にはあんなような苦労はかけたくないと思っている。

 

しかし、家には居たいという思いもあるが、介護には車椅子が通れるように段差を取り除いたり、それなりの設備が必要だから複雑な思いもある。

「この辺りの山も荒れてきたし、イノシシも出てきて生活できんようなります。私のところにもムササビが住み着いてねぇ、動物と同居しています。」

 

「嫁は労働力ですからね、山の中で年寄りばっかりのところに来て、仕事戦でもえい、って言われても、仕事をせんわけには行かんわねえ。今思うとまっこと馬鹿よね、と思いますがね。来たからにはもう帰る所はないわけですし、当たり前と思うて働いてきました。楽しい、という思い出とかは一度もなかったです、生まれてくるのが早かった・・・。」

 

 

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「バーン&ベッドHOSTEL」はプロムポン駅徒歩3分一泊1000円でお泊まり

プロムポン駅すぐの格安新しいホステルに泊まりました。

まわりはすごく賑やかで日本人も多いところです。 

ワットポーマッサージスクールに通うために探しました。

立地はワットポーマッサージスクールスクンビット校の前です。

9時から16時まで5日間講義があるので

ホテルは寝るだけでいいだろうということで

HOSTELのドミトリーです。

 

バーン&ベッドHOSTEL外観

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すっごく賑やかなところにあります。

日本食のお店も多いです、

日本人もすごく多いです、びっくりです。

 

みんなゆるーく行きてる感じです。 

 

フロント入り口ロビー

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フロントで鍵をもらって2階に行くと

朝食会場&フリースペースがあります、

ドミトリーというのは一部屋に2段ベッドが2〜3個あって

狭いのでこういうスペースでくつろいだり勉強したりします。

 

朝色はサンドイッチとバナナ

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朝の屋台は見てるだけ、買いたいけどわからない

 

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タイ料理ってなんで美味しいんだろう、

何食べてもハズレがない、

いつか、こういうのにもトライしてみるぞ

 

 

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ワットポーマッサージスクールが目の前

f:id:chizukoike:20190510085852j:plain到着した翌日から講習開始した。

初日の感想は

「難しい」です。

まだ4日間あるから頑張ります、

一生懸命勉強して、旦那さんにマッサージできるようになったら

旦那さんも喜ぶだろうし、健康にもいいし、

覚えるしかない。

 

日本語の教科書

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 ホステル内部

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はじめの3泊4日で泊まって、その次はホテルに移動します。

ホステルとしては高いので、500円ぐらいで泊まれるところもたくさんあるので

お客さんが少なく、また泊まってる人が静かな人たちだったのでよかったです。

 

 

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スワンナーム空港でスマイルwifiと両替

福岡空港からタイ航空に乗ってバンコクへ旅立ちました。

新幹線駅から際近の福岡空港は規模が大きすぎず、人も多すぎず

とても使い勝手がいい空港です。

 

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スワンナプーム空港からスカイトレインで プロムパン駅のはずが

スワンナプーム空港までは5時間半で到着、

出国したらまず

地下1階へ行って

スマイルwifiでポケットwifiレンタル

8日から19日までで3000バーツ デポジット1000バーツ

 

その次にスーパーリッチで両替、

何軒かある両替屋さん、みんな同じレートだったよ

1円が286バーツ

 

で次はスカイトレインに乗ってphaya thai駅まで行き

btsに乗り換えてプロムパン駅に行く手はずだったのだが・・・

 

黄色いシャツ着た男の人に呼び止められたのさ、

「どこ行きます?今日はスカイトレインメンテナスでおやすみ、動いてないよ」

というではないですか、

「そういえば人も少ないし、そうかな、困ったな・・・」

と思っていると

「タクシーしかないね、タクシーで行きましょう、どこ行く?」

「スクンビットsoi39」と言ってたホステルの住所を見せる

「9000バーツね、」と言って商談成立したわけさ。

 

 

スワンナプーム空港の裏あたりで呑気に写真撮ってる 

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しばらくしたらセダン車がきて乗車

車もきれい、車内も掃除が行き届いている感じ、運転手さんは寡黙(言葉通じないし)

 

ネット予約では900バーツよりもっと高かったと思ったので

スカイトレインで行く予定がちょっと違ったけど、まあいいか。

 

日本語の店が多いバンコク

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何?kochi ?でパシャり

 

市内に入ってから運転手さんが

住所は?と聞いてきて、その次に

電話番号は?と聞いてきて

電話をかけて住所を聞いているらしかった。

 

でスムーズに今日から4日間宿泊するホステルに着きました。

 

 

バーン&ベッド ホステル 1泊1400円

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とにかくチェックインできてほっとしました。

目の前には明日から通う「ワットポーマッサージ」が見えたし

 

ということで、

とにかく荷物を置いて

ホステル隣にあるタイ料理屋さんに直行しました。 

 

 

イムちゃんでスイカジュースとヤムウンセン

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 本場のヤムウンセン美味しーーい、ちょっと量が少ないかな、

バンコク初日は無事にホテルに到着、とりあえずほっとしました。

 

都会は人が多くて空気が悪いなぁ〜 

 

 

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博多駅で「とりかわ大臣」と「串カツ田中」前泊はsbホテル

 高知から岡山経由、新幹線で博多駅まで行きます。

福岡空港からバンコクスワンナプーム空港へ行くために

福岡で前泊しました、そのほうが楽なのと博多飲みができるからです。

 

ゴールデンウィーク翌日の新幹線は混んでいません

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お宿に着く前に博多駅でいっぱいやってから行きましょう。

 

博多駅口Kitte地下街のフードコートへ行く

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新幹線を降りると、博多口出口と築地出口があるので

博多口出口をでて左に向かって歩くと

マルイビルkitteがある、全てネットで調べた。

 

kitte博多 うまいと

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食べ物屋だらけです。

ネット検索せずにここで選んでも良さそう。

 

博多とりかわ大臣

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福岡では有名なチェーン店のようですが

高知にはないので初来店しました。

地下一階のフードコートにはおいしそうなお店が、

日本の都会的な清潔でおしゃれなお店がいっぱいです。

 

とりかわ塩、タレ、豚バラ、イカ

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とり皮焼きは薄い脂っ気のない皮を串にぐるぐる巻きにしてあり、

塩はパリパリ感があり、タレはソフト感あり、タレをお代わりした。

豚串は玉ねぎが挟んであってgood、イカはまあまあ。

 

地元の人はたこ焼き食べる感覚で食べてるのかな、

女の人、とかおばさん率高し、

コーラと烏龍茶でとり皮10本とか頼んでいた。

 

飲み物は注文必須だった、

たしかに最近の若い人は、お水ください、って人もいるから。

 

 

串カツ 田中

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高知にはない有名全国チェーン店

あと「一蘭」でラーメンも食べたかったけど

お腹に入らなそうでやめた。

 

高知にはないお店に行ってみたかったのです。

 

 

 

串カツの田中 紅生姜の串カツが珍しい

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レンコン、豚肉、レバー、玉ねぎ、そして紅生姜串揚げ

赤い串が紅生姜です、ピリ辛で美味しいです。 

 

 

 

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お宿は新幹線博多口側の博多sbホテル 一泊4400円、多分最安値

 

前泊に博多がいいのは

新幹線博多駅から福岡空港が非常に近いことです。

福岡空港は東京、名古屋、関西に比べて空港が小さくて比較的空いています。

 

駅前に安価なホテルもたくさんあって、飲食店も多い。

海外旅行に行く前についでに国内旅行も楽しめるというわけです。

 

明日は福岡空港からバンコクへ旅立ちます。

 

 

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